2022-03-01から1ヶ月間の記事一覧

夢窓国師仮名法語(四)

夢窓国師御詠 甲州(今の山梨県の辺り)河浦という所に山籠もりしていらした庵の庭の雪がまだらに消えて、人が踏んだのに似ていたのをご覧になって詠んだ和歌 わが庵(いお)をとふとしもなき春のきて にはに跡ある雪のむらぎえ (わたしの庵(いおり)を人…

夢窓国師仮名法語(三)

和歌 一 のちの世の遠きをねがう人はみな ちかきむねなる仏しらずや (死んで後の遠い世を願う人たちはみな、すぐ近い自分の胸にある仏を知らないのだろうか。) 一 あさゆう(1)に有無ぜんあくにとまらずば ひとを自在のほとけとはいう (1)底本では「…

夢窓国師仮名法語(二)

ねられずば起きていよかし梓弓 あたらぬまでもはづれざりけり (寝られないのであれば起きていればよい。考えが的にあたらなくとも、外れることもないというものだ。) どうせ眠れないのであれば起きていて自分の生死の一大事を究めなさるがよい。たとえこの…

夢窓国師仮名法語(一)

*夢窓国師(むそうこくし:1275-1351)=臨済宗天龍寺開山、夢窓疎石(むそうそせき)禅師の仮名法語。底本:『禅門法語集 中巻 復刻版」ペリカン社、平成8年補訂版発行〕 *〔 〕底本編者による補足、[ ]はブログ主による補足を表す。 ( )付数字はブ…

聖一国師(東福寺開山)仮名法語(六=終わり)

古人法語(1) 参禅の日々を重ねて成果を得ようと思うなら、千尺(2)の井戸の底に落ちたかのようにするがよい。朝から夕方になるまで、夕方から朝になるまで、千万という思案や分別を、ひたすらこの井戸を出ようとすることを求める心だけにして、ほかのこ…

聖一国師(東福寺開山)仮名法語(五)

問い もし見性成仏の本質を明らかにすることなく、臨終に向かっている時には、最後にはどのような心構えでいればよいのか。 答え 一心が起こって生死がうまれる。無心のとき、生まれる身もなく、消滅する心もない。無念無心のとき、まったく生滅というものは…

聖一国師(東福寺開山)仮名法語(四)

問い 長い間坐禅修行をしている人は、身心が明るく清浄に違いない。初めて修行をする人は、妄想や顛倒(てんどう、さかさまな思い違い)がどうして止むだろうか。 答え 妄想や顛倒を憎んではならない。ただ心の本性を明らかにしなさい。一心が分からず迷って…

聖一国師(東福寺開山)仮名法語(三)

問い 見性し道を悟った人は、じかに仏だとは言っても、どうして神通力や光明に輝くようなことがないのか。また普通の人と違って、霊妙な働きとみえるようなこともない。これはどういうことか。 答え この身は、過去の妄想から造り出されているので、見性した…