夢窓国師御詠
甲州(今の山梨県の辺り)河浦という所に山籠もりしていらした庵の庭の雪がまだらに消えて、人が踏んだのに似ていたのをご覧になって詠んだ和歌
わが庵(いお)をとふとしもなき春のきて
にはに跡ある雪のむらぎえ
(わたしの庵(いおり)を人の訪ねてくる折などないが、春が来て庭の雪がまだらに消えて、まるで訪ねてきた人の足跡のようだ。)
相州(現在の神奈川県辺り)三浦に泊舟庵という庵を結んで、お住みになっていた頃にお詠みになった和歌
引潮の浦とおざかるおとはして
ひがも見えずたつ霞かな
(引き潮の入江を舟が遠ざかる音はするが、干潟も見えないほど霞が立っていることよ。)
鎌倉亜相(あしょう、大納言のこと)ならびに武衛(護衛の武官)(直義朝臣(1))が鹽川寺の前に茶屋があったところで仏法の談義をした後、嵐の山の花の様子を見て、そこにいた人々が和歌を詠んだときに、
(1)直義朝臣:足利直義のこと。直義と夢窓国師の問答が『夢中問答』となる。
誰もみゑを見る人ぞなき
(春には皆が来て集まって詩歌をつくったりして遊ぶけれども、心の花を見る人はいない。)
ちる花を梢のよそにふきたてて
嵐ぞしばしえだとなりぬる
(散る花を梢の向こうまで吹きたてて、嵐が少しの間、花をつける枝となったかのようだ。)
なほもまたあまた桜をうゑばやと
花見るたびに見せん庭かな
(なおいっそう多く桜を植えたいものだと、花を見るたびに思わせる庭であるよ。)
見るほどは世のうき事も忘られて
隠家(かくれが)となるやまざくらかな
(見ている間は、世の中の辛いことも忘れられて、隠れ家となる山桜であるよ。)
咲とみるまよひよりこそちる花を
風のとがとぞ思ひなれぬる
(咲くとみる迷いの心があるから散る花なのに、風が悪いのだと思い慣れてしまっていることだ。)
今見るはこぞわかれにし花やらん
咲てまた散るゆゑをしられぬ
(今見ているのは去年お別れした桜なのだろうか、咲いてはまた散ってゆくその理由は知ることができないのだ。)
征夷大将軍(足利尊氏)が西芳寺の花の下で仏法の談義をした後、人々が和歌を詠んだときに、
心ある人のとひくるけふのみぞ
あたら桜のとがをわするる
(情趣の分かる人が訪ねてきた今日ばかりは、人を迷わす桜の罪を忘れてしまうのが残念だよ。)
花の盛りに西芳寺に行幸があるだろうと聞いていたが、たて続きに差しさわりが出来てのびのびになっていた時に、桜の花が散っていたのをご覧になって、
なほも又千年の春のあればとや
御幸もまたで花のちるらん
(さらにまた向こう千年も春があれば、とでもいうのだろうか。行幸も待たずに桜が散っているようだよ。)
武衛将軍禅閣(恵源(えげん)(2))が桜の花のころ西芳寺にお越しになった時に、人々が和歌を詠んだ折に、
(2)恵源:足利直義の号。
ながらへて世に住かひもありけりと
はな見る春ぞおもひしらるる
(生き永らえてこの世に住むかいもあったなあと、桜の花を見る春に思い知られることだよ。)
ちればとて花はなげきのいろもなし
わがためにうき春のやまかぜ
(散るからといって桜の花は嘆いている様子もない。春の山風が吹いて物憂く思うのは自分のためなのだ。)
いきて猶ことしも見るにならはれて
またこん春をはなにまつかな
(生き延びて今年も見ることに慣れてしまい、また来るであろう春の桜の花を待つことであるよ。)
かずならぬ身をばあるじと思はでや
こころのままに花ぞちりゆく
(ものの数ではない自分の身を、確かに存在する主(ぬし)とは思わないからなのだろうか、こころのままに桜の花が散ってゆくことだよ。)
征夷将軍が同じ春にお出でになってとき、
山かげにさく花までもこのはるは
世ののどかなる色ぞみえける
(この春は、山陰に咲く桜の花にまでも、世の中ののどかさの様子が見えるようだよ。)
この庭の花みるたびにうゑおきし
むかしの人のなさけをぞしる
(この庭の桜の花を見るたびに、植えておいてくれた昔の人の情けを知ることだ。)
さく花はいまもむかしの色なるに
我身ばかりぞおひかはりぬる
(咲いている桜の花は今でも昔のすがたと変わらないのに、我が身ばかりが老いて変わってしまったことよ。)
年をとってから庭の花をご覧になって、
ななそぢの後の春までながらへて
こころにまたぬ花をみるかな
(七十歳を超えた後の春までも生き永らえて、また来年と期待することもなくなった桜を見ていることだよ。)
西芳精舎に御幸があって、二株のすばらしい桜を見て回られることがあった、その翌日に献上なさった和歌。
竹林院内大臣(現在の大納言)(3) さまへ
めづらしき君が御幸をまつかぜに
ちらぬ桜のいろをみしかな
(めったにお出でにならないあなた様のお越しを待っている私ですが、ここの松の木を吹く風にも散らない桜の美しい姿を見たことですよ。)
贈答(お答え)
心にちらぬ花のおもかげ(4)
(4)底本ではこの七七の冒頭に「本のママ」と書かれている。初めの五七五が消失したか。
(心の中には散らない桜の面影がはっきりとあります。)
またもこん春をたのまぬおひが身を
花もあはれとおもはざらめや
(再び来るだろう春を期待しない我が身を、桜の花も哀れと思わないのだろうか。)
行末のはるをもひとはたのむらん
花のわかれはおひぞかなしき
(行く末の春を人は期待しているのだろうが、老いた私には桜の花の下での別れは悲しいことだよ。)
この年の九月末にお亡くなりになった。