夢窓国師仮名法語(一)

*夢窓国師(むそうこくし:1275-1351)=臨済宗天龍寺開山、夢窓疎石(むそうそせき)禅師の仮名法語。底本:『禅門法語集 中巻 復刻版」ペリカン社、平成8年補訂版発行〕

*〔 〕底本編者による補足、[ ]はブログ主による補足を表す。

( )付数字はブログ主による注釈。

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仮名法語

                             夢窓国師

 

そもそも仏と言うのは何かと問い尋ねてみれば、すなわち人である。神というのは、何であるかと問い尋ねてみると、むかしはただの人である。人という者はどこから来たのかと問い尋ねてみると、父母も天地もいまだ分かれない先を考えてみれば、ただ地水火風の四つ(1)である。かりに父母の縁として生を受けて人となったとしても、限りがあって死ねば、またもとの地水火風に帰るものであるのに、本当に死んで朽ち果てるように思う事は、大いなる誤りである。

 

(1)地水火風(ちすいかふう):四大(しだい)と呼ばれる古代中国の四元素。世界はこの四つの元素から構成されるとした。

 

   灯(ともしび)の消えて何国(いずこ)にかへるらん

               くらきぞ本のすみかなりけり

(燈火が消えていったいどこに帰るのだろう。暗い所が元の住処なのだ。)

 

と詠まれている。生を受けている間の者を夢にたとえたのである。まず、夢を見ると良い事にもあい、おそろしい事にもあうことがあるけれども、醒めてみれば何もない。生を受けている間、今から後世のことを見越して欲を蓄え、好ましい境遇や悪い境遇と分かれるけれども、善悪ともに夢のようなものである。またもとの四大が空(くう)に収まるとき五大(ごだい)となるが、これを本分の天地(本来の故郷)といって苦も無く楽も無く安楽の都であるのを、悪い行いや煩悩や瞋恚(しんい、怒り憎しみ)に捉えられて、境遇があるように思うことは、嘆かわしいことである。

 

  極楽にゆかぬと思うこころこそ

              地獄におつるはじめなりけり

(極楽にきっと行こうと思う心こそ、地獄に落ちる初めなのであるよ。)

 

と詠まれている。夢でも考えていることが出てくるのは、二念(にねん)をつぐ(2)からである。この浮世では、どれほどかでも欲の心とか煩悩もなくては思うように行かず、たとえどんな悪事であったり好ましいことであったりしても、三世(さんぜ、過去・現在・未来)に関係するということもあるが、その時の当座で済ませて二念をついではならない。

 

(2)二念をつぐ:その時の想念で終わらず、引き続き次の想念を抱くこと。

 

そうなのではあるが、やはり念が起こるような時には、水に波が立つように思いなさい。そうすれば、しいて念を止めようと心にかけなくとも、そのまま醒めるのである。もとより凡夫(ぼんぷ、悟らない普通の人)の身の上で水で清めるべき汚れもなく、嫌うべき煩悩もなく、求めるべき菩提(ぼだい、悟りの知恵)もなく、ここにおいての振る舞いはみな、夢のようであるといつも心にかけているならば、たとえ浅ましい想念が起こったとしても香炉の上にかかった雪のようにたちまち消えてしまうだろう。想念が起こるときにこのように打ち破ることを金剛法剣(こんごうほうけん)(3)と修行者の戒法(かいほう、いましめ)と言うのである。この道理を聞くときは、善にでも悪でも二念をつぐほど浅ましいことはないと見えるのである。仏法さえ捨てるのに、非法(仏法でないこと)はなおさらである。前に申し上げたように人というものは地水火風の四つである。死ぬときに膿や血は水に帰る。ぬくもりは火に帰る。働きは風に帰る。残る骨や死骸は土に帰る。この四大が空に収められた時は、五体とみて仏の姿である。

 

(3)金剛法剣:金剛はダイヤモンド、念を斬る非常に固い真理の剣。

 

一 つくづくと生まれぬ前(さき)をあんずるに

                   こひしかるべき父母もなし

(つくづくとまだ生まれない前を思いめぐらしてみると、恋しいはずの父母もない。)

 

一 四大とて地水火風を合わすれば

              われを名(なづ)けてほとけとは云ふ

(四大という地水火風を合わせると、自分を名付けて仏というのである。)

 

一 おしよせてむすべば柴の庵(いおり)なり

                とくればもとの野原なりけり

(押し寄せて結べば柴の庵となるが、解いてしまえば元の野原である。)

 

一 世の中は市のかり屋のたへ[え]たへ[え]に

               ひとりひとりに帰りこそすれ

(世の中は、市場の仮小屋が次第に店をたたんで、一人一人帰ってゆくようなものであるよ。)

 

一 たえもせず本の水にもあらぬかな

              ただ谷川のひとのよのなか

(絶えてしまうこともなく、また元のままの水でもない。ただそのような谷川のごとき人の世の中であるよ。)

 

この和歌の心は、人というものは死ぬと元のように現れて絶えないものであり、そうはいっても死んで行く者はふたたび帰ることもない。同じように谷川の水も落ちて行くとは言っても元になっている水はけっして落ちるものではないという心である。