輪廻ということを、
あかつきのうき別れにもこりずして
あふはうれしき宵のたまくら
(夜明けのつらい別れにも懲りずに、また宵になるとぴったりと顔と会うことがうれしい手枕のように、いずれ別れてしまうが出会いの喜びを繰り返す輪廻であることよ。)
どのように仏道修行に心がければよいか、僧が尋ね申し上げたのに対して、
まもりとはおもはずながら小山田に
いたづらならぬそうづ成けり
(守っているとは思ってはいないが、山中の田んぼには無駄ではない案山子(そおず、かかし)であるように、不断に道を守り続ける僧都(そうづ、僧)であるよ。)
題知らず〔『風雅集』入り)
夜もすがらこころの行衛たづぬれば
きのふのくもにとふ鳥のあと
(一晩中、自分の心の行方を尋ねてみれば、昨日の雲に鳥の飛んだ跡を聞くのと同じで、あとかたもない。)
『弓もおれ矢もつきはつる所にてあたりはづれをいかがさだめん(弓も折れ、矢も尽き果ててしまったところで、当たり外れをどのように定めたらよいのだろうか)』と、ある人が詠んで差し上げられたので、
弓もおれ矢もつきはつるところにて
さしもゆるさでしばしいてみよ
(弓も折れ、矢も尽き果ててしまったところで、だからといってひるむことなく、しばらく射てみなさい。)
題しらず
吹きやみてしばし夢かせまつのかぜ
かへらぬ老のむかし見るほど
(松風よ、少しのあいだ吹き止んで、この老人の帰らぬ昔を見るだけの夢を貸してくれよ。)
公案提撕(ていせい、奮起させ導くこと)の心を
立たぬまとひかぬ弓にてはなつ矢は
あたらずながら外れざりけり
(立っていない的、引かない弓で放つ矢は、当たらないとしても外れることはないのであるよ。)
題しらず
あまのはらふみとどろかしなる神の
音にもなどかおどろきもせぬ
(天上を踏み轟かして鳴る雷神の、音にもどうして仏法に目覚めないのだろうか。)
秋の夜のながきねぶりのさめしより
よそには聞きぬ萩のうはかぜ
(秋の夜の長い眠りが覚めてから、萩の上を吹く風の音を遠くに聞いていたことだ。)
ささがにの糸のかよひぢてはてて
かかるかたなきわがこころ哉
(天上と行き来する蜘蛛の糸も絶え果ててしまい、気にかかることも何もない私の心であるよ。)
ふればまつつもらぬさきに吹きすてて
風あるまつはゆきおれもなし
(雪が降れば、積もらない前にそれを吹きすててしまい、風に吹かれる松は雪に折れることもない。)
佛徳禅師御詠(1)
(1)夢窓禅師の同門、佛徳本元、号は元翁。夢窓禅師が開いた虎渓山永保寺(岐阜県多治見市虎渓山町)を佛徳禅師に託し、のちに同寺の開山となった。
題知らず
いとひつる山路のおくよそれよりも
身をわすするや深きかくれ家
(世間を避けた山路の奥よりも、わが身を忘れるのがいっそう深い隠れ家であるよ。)
わがこころおもてに見ゆるものなれば
いかにすがたの見悪からまし
(自分の心が表に見えるものであれば、どれほど醜い姿をしていることだろうか。)
いづれをか我とはいはんかりにただ
つち水火かぜあはせたる身を
(いったい何を自分だと言うべきだろうか、ただ地水火風という四大(しだい、元素)を合わせただけの身を。)
寛文四甲辰年(1664年)三月上旬
(終わり)