夢窓国師仮名法語(十=終わり)

輪廻ということを、

 

   あかつきのうき別れにもこりずして

               あふはうれしき宵のたまくら

(夜明けのつらい別れにも懲りずに、また宵になるとぴったりと顔と会うことがうれしい手枕のように、いずれ別れてしまうが出会いの喜びを繰り返す輪廻であることよ。)

 

どのように仏道修行に心がければよいか、僧が尋ね申し上げたのに対して、

 

   まもりとはおもはずながら小山田に

               いたづらならぬそうづ成けり

(守っているとは思ってはいないが、山中の田んぼには無駄ではない案山子(そおず、かかし)であるように、不断に道を守り続ける僧都(そうづ、僧)であるよ。)

 

題知らず〔『風雅集』入り)

 

   夜もすがらこころの行衛たづぬれば

              きのふのくもにとふ鳥のあと

(一晩中、自分の心の行方を尋ねてみれば、昨日の雲に鳥の飛んだ跡を聞くのと同じで、あとかたもない。)

 

『弓もおれ矢もつきはつる所にてあたりはづれをいかがさだめん(弓も折れ、矢も尽き果ててしまったところで、当たり外れをどのように定めたらよいのだろうか)』と、ある人が詠んで差し上げられたので、

 

   弓もおれ矢もつきはつるところにて

               さしもゆるさでしばしいてみよ

(弓も折れ、矢も尽き果ててしまったところで、だからといってひるむことなく、しばらく射てみなさい。)

 

題しらず

 

   吹きやみてしばし夢かせまつのかぜ

                かへらぬ老のむかし見るほど

(松風よ、少しのあいだ吹き止んで、この老人の帰らぬ昔を見るだけの夢を貸してくれよ。)

 

公案提撕(ていせい、奮起させ導くこと)の心を

  

   立たぬまとひかぬ弓にてはなつ矢は

               あたらずながら外れざりけり

(立っていない的、引かない弓で放つ矢は、当たらないとしても外れることはないのであるよ。)

 

題しらず

 

   あまのはらふみとどろかしなる神の

               音にもなどかおどろきもせぬ

(天上を踏み轟かして鳴る雷神の、音にもどうして仏法に目覚めないのだろうか。)

 

   秋の夜のながきねぶりのさめしより

               よそには聞きぬ萩のうはかぜ

(秋の夜の長い眠りが覚めてから、萩の上を吹く風の音を遠くに聞いていたことだ。)

 

   ささがにの糸のかよひぢてはてて

               かかるかたなきわがこころ哉

(天上と行き来する蜘蛛の糸も絶え果ててしまい、気にかかることも何もない私の心であるよ。)

 

   ふればまつつもらぬさきに吹きすてて

                風あるまつはゆきおれもなし

(雪が降れば、積もらない前にそれを吹きすててしまい、風に吹かれる松は雪に折れることもない。)

 

  佛徳禅師御詠(1)

 

(1)夢窓禅師の同門、佛徳本元、号は元翁。夢窓禅師が開いた虎渓山永保寺(岐阜県多治見市虎渓山町)を佛徳禅師に託し、のちに同寺の開山となった。

 

題知らず

 

   いとひつる山路のおくよそれよりも

               身をわすするや深きかくれ家

(世間を避けた山路の奥よりも、わが身を忘れるのがいっそう深い隠れ家であるよ。)

 

   わがこころおもてに見ゆるものなれば

               いかにすがたの見悪からまし

(自分の心が表に見えるものであれば、どれほど醜い姿をしていることだろうか。)

 

   いづれをか我とはいはんかりにただ

               つち水火かぜあはせたる身を

(いったい何を自分だと言うべきだろうか、ただ地水火風という四大(しだい、元素)を合わせただけの身を。)

 

 寛文四甲辰年(1664年)三月上旬

 

                               (終わり)