大応仮名法語(二)

〇問う人が言う。あらゆる物事は想念を持たず無心で、良し悪しの分別はないが、我々はそれらの物事に対してすべて良し悪しの分別がある。どうして物事と一体であるはずがあろうか。

〇禅師が答えて言う。我々が見聞きしたり気付いたりする精神の働きは、ことごとく虚空をその本体としている常住不変の妙心*から出ている優れた働きである。この優れた働きの鏡が清らかであれば、森羅万象の姿はこの鏡にうつる。衆生は、この一念が本来の優れた働きであることを知らずに、この一念を愛したり憎んだりすれば、愚かな犬が土くれを追いかけるようなものである。見るがよい。世間の中にあるものすべての物はみなこれ良いか悪いかである。この二つを離れない。良いものは良いのであって無心無念であり、悪いものは悪いのであって無心無念である。それゆえ、良し悪し、獲得と喪失、生き死にや転変など、一切の物事は皆これあなたの本体の輝きであり、本来の面目なのである。

 *妙心:言葉では表現できない優れた心。

 

〇ある人が尋ねて言った。そのように心と本性とは一体だと見ても、ややもすれば物事によって、ある時にはこれを愛し、ある時には怒り、ある時にはよく分からず、ある時ははっきりと分かり、またある時は気が散り乱れる。衆生には皆、こうした病がある。どうして良し悪しが一体だと見ることができようか。

〇禅師が答えて言う。あなたが一たび怒るときのその本質は、あなたの四大の中の火の元素に当たる時に、顔も赤らみ体の中も熱く燃えるのである。これはすなわち火の元素の本質なのだから、何物を自分と言うべきか、自分など無いのである。もやもやして分からない時は、あなたの四大の中の地の元素に当たる時で、もやもやと暗く物をわきまえ知らないのである。物を愛し、慕う心が深く、泣けば涙が浮かぶのは、あなたの四大の中の水の元素に当たる本質である。何物を自分だと言うべきだろうか。手を挙げ、足をおろし、東西南北に行き来し、動き働き、音を出す、これはあなたの四大の中の風の元素のしわざである。何物を自分だというべきだろうか。あなたの一大事である命というものの息である。息は風の元素であり、虚空に満ちあふれている風である。この四大は、本来、真実の世界の正体であって、何物を自分だというべきだろうか。衆生が自分だと思っているのは、貪瞋癡*であり、これを自分だとしているのだ。如来にとっての自分というのは、常楽我浄**のこの本体そのものであり、草木や国土、ありとあらゆるものを自分というのである。オケラやアリ、蚊やアブ、蠢く虫や生き物すべてに至るまで、ことごとく皆自分だと見て取るので、すべて隔てもない。また、これが自分だと取り立てて愛すべき物もない。暗くてもやもやするのも真実世界のもやもや、はっきり明白なのも真実世界の明白。このもやもやも明白も、双方ともまったくあなたのもやもや明白ではなく、常住不変の妙心(優れた本心)の妙用(みょうゆう:優れた働き)である。ただ、あなたの日ごろの貪瞋癡を見て自分だと思っている、その自分をいっぺんに放り出してしまえ。その煩悩に満ちた自分を殺し得た時、いったい誰が生き死にに迷うことがあろうか。本来生き死にはないと見て取るならば、いったい誰が修行をする必要があろうか。何か一つとして獲得すべき真理はなく、一つとして捨てるべき真理もない。胸の中に一つの塵も一つの物事もない。円融(まどかに溶け合って妨げなく)無際(無限に広がり)大法現前(大いなる真理が今ここに姿を現す)のところ、これがそのまま大安楽のところである。

*貪瞋癡(とんじんち):三毒煩悩といわれる三つの主要な煩悩。むさぼり、いかり、ぐち

**常楽我浄(じょうらくがじょう):常に苦しみのない清らかな自分。

 

〇尋ねて言った。仏法を一つも学ばない時は、平穏であり依存するものもないが、そのような状態になる時は、何もしなければ何事もないという無為無事の見解に落ち込まないだろうか。

〇禅師は答えて言う。何もしないところを良しと思うのならば無為無事の見解に落ち込んでしまうだろう。しかし本来無我であると悟るときは、また何物があって無為無事を好み取るだろうか。本当にあなたがその邪魔をしている真実を見ない自分を一気に打ち殺して見よ。山虚風落石 樓靜月侵門(山虚にして石を落とし 樓静かにして月、門を侵す:山々はひっそりとして、風が石を吹き落とす音さえ聞こえ、西閣には動くものとてなく、月の光が扉の中に侵入してくる。)*。

杜甫の詩「西閣夜」にある文句。