五 根本は生まれず、死なない事
尋ねて言った。生まれるものはすべて死ぬものである。生まれればこそ、私とか人とかいうこともあり、また死ぬからこそ、この世にとどまらず、仏ともなり、地獄にも入ると言いますのに、生まれもせず、死にもしないとはどのようなことでしょうか。答えて言った。本当に、生まれたり死んだりすることのないことを肝要とするのです。まず、生まれると言うのは、父母の縁によって土と水と火と風との四つを借りて姿とするのです(1)。頭の髪、体の毛、爪、歯、皮膚、肉、筋、骨などは土です。唾、膿(うみ)、血、涙、大小便などは水です。体が暖かいのは火です。体が動いて働き、息が出入りするのは風です。この四つが仮に寄り集まった中に、思い知る気があるのが心です。これは本当に生まれたというのではなく、在るというのではなく、無いのに似ているが、確かに在るものの、実体がないのを、いろいろに譬えられ、幻、ほのお、夢、影、谷の響き、水に映る月、水の泡、鏡に映る姿、稲妻などのようだと説かれているのです。このような身を本当に生まれたのであると見るのは迷いです。その身に従っている心は、目の病気がある人の目には空にいろいろな花などが見えるように、花はないのだけれども、目の病気があるから花を見いだすようなものです。本当に生まれて死ぬことはないのです。ただ生き死にだけではなく、目に見え、耳に聞き、心に浮かぶこと、すべて夢まぼろしであるときっと深く信じなさい。本当に心も在り、本当に身も在ると思い定めるがゆえに地獄に入るのです。また、死ぬと見るのも、仮に寄り合った水が離れれば身に潤いはなくなり、火が離れれば身は冷えて暖かさはなくなり、風が離れれば身がすくんで働かず、焼いたり埋めたりしてついに土に返す、これを迷って死ぬと見る、この時、仮にその身に連れ立っている心も連れてなくなる。そうは言っても本当に死ぬのではなく、生まれる時も本当に生まれるのではないので、死ぬと見えてもまた本当に死ぬのではなく、ただ父母の縁によって現れ、借りていた縁が尽きれば、元のようになるまでなのです。実際に死ぬのだと思い定めるがゆえに地獄に入るのです。譬えれば、いろいろな物を集めて人形を作りだして操るのは、生まれたようなものです。操っている糸が切れて倒れれば死ぬと見えるようなもの。実際には生まれもせず死にもせず、生まれるといっても来るものもなく、死ぬといっても去るものはない。土も火も風も水も法界(この真実世界)の機(働き)であるから、特別に主体というものがあるわけではない。心というのも法界の心であるから主(ぬし)はない。あらゆることに執着する心がなく、二念(にねん)(2)を継がないのを仏と言うのです。
(1)土と水と・・・:地水火風は四大(しだい)と言い、古代中国で世界の四元素と考えられたもの。
(2)二念:念が起こった時、それに対してさらに念を起こすこと。
六 仏は生まれもせず死にもなさらない事
尋ねて言う。生まれも死にもしないとお聞きしても、釈迦仏も摩耶(まや)夫人をご母堂としてお生まれになり、十九才で世を遁れて、五十年の間仏法を説かれ、ついに八十才でお亡くなりになった。その御舎利(おんしゃり、御遺骨)として今もあります。衆生(生きとし生けるもの)もこれまで姿の見えなかったものが生まれて出て、今まであったものも死んでいなくなるのに、生まれもせず死にもしないと言うべきでしょうか。答えて言う。生まれたり死んだりすると見るのは衆生の誤りです。仏は真実の目で生まれず死なないとご覧になります。誤った見方を真実と思い詰めて、新たに移り変わると見る心が地獄に入るのです。迷っている衆生ですから、仏の目とは異なると言っても、この道理を疑わず信じて、仮に見える生死に執着してはいけません。譬えれば夢を見る時には、その夢を夢とは思いません。そのように私たちは生死の闇の世の中にあって、生死の夢を見ているあいだは、生まれ、死ぬことをただ本当のことだと思い詰めているのです。よくよく、譬えなどによって理解なさるがよろしい。船にのって行くとき、岸が移り行くと見えるのは誤りです。岸は動かず、船が行くので岸が移り行くように見なすのです。私たちが迷いの船で浮き沈みするので、常住であることをも移り変わると見、仮のものに過ぎないものをも真実のものと見るのです。実際には去ったり来たりするものはないのです。仏と申し上げるのは、色もなく形もなく、生まれたり死んだりすることもなさらないと言っても、この道理を衆生に教えるために、憐み深く、仮に姿を現して世に出られたのです。本当の仏というのは、衆生と身の毛一筋ほども変わることはなく、根本の心は同じものなのです。隔たりがあると思うのは地獄に入る心なのです。