夢窓国師二十三問答(五)

十四 懺悔に二種類があること

 

 尋ねて言った。二つの懺悔のうち、どちらを行うべきでしょうか。答えて言うには、人の心に任せるべきであるとはいえど、あらゆる心は無いことでありますから、無念無想ということが肝心でございます。有相(うそう:姿形があること)のありさまで念が起こったとしましても、根本には何もなく心もないと悟られれば、念があるのも無いということでございます。本当に身があって罪を作り、実際に心があって罪をつくると思ってはなりません。

 

十五 誓願のこと

 

 尋ねて言った。誓願を起こすとはどのようなことですか。答えて言うには、仏となって、七代に渡る父母や親族・身内の者、そのほか一切衆生をあまねく救おうと願(がん)を立てるべきです。ただわが身ひとりのためを思って、心狭くあってはならないことです。自分を特別な主(ぬし)にして、世界全体、草や木までも我が身と同じものと信じないのはよくありません。諸々の仏の願はざまざまあるといっても、みな心が一つであることをお知りになり、心がそのまま仏であるところをお知りになるだろうゆえです。ですから、諸仏の本来の誓願は、あまねく衆生をこの道に入れる時に、我願満足(ががんまんぞく:自分の願いは満たされた)とも説かれているのです。釈迦仏は浄土の説をお立てにならずに、濁りのある世の中で、諸々の仏の浄土から退けられ捨てられた悪業(あくごう:悪い結果を招く過去の悪い行い)の深い衆生を救おうという願をお立てになりました。これを十方(じっぽう:あらゆる方角)の諸々の仏たちは、ほかの仏の願よりも優れているとお褒めになったということをお説きになられました。その他に五百の大願(たいがん)を釈迦はお立てになったといえども、ただ衆生を一心を知る道にお入れになるためなのです。

 

十六 廻向(えこう)のこと

 

 尋ねて言った。廻向するとはどのようなことでしょうか。答えて言うには、一文を読み、一滴の水を注いでも、あまねく全世界の衆生にたむけ、広く供養するのを廻向と申します。供養をする人のために霊供(りょうぐ、供物)を差し上げ、ともし火をかかげても、その人だけとは思ってはなりません。廻向の心が広ければ、受ける功徳も多いのです。大きな善行を行っても廻向が狭ければ利益は少ない。小さな善であっても心広く全世界に廻向して、背く心なく、執着する心がないようにあるべきです。世の中で言い慣わしていることは、そのまま仏の御法(みのり:仏の教え)でございますから、親に孝行に、あらゆることを耐え忍んで柔軟な心でいることは、仏なのです。ただ我が身ばかりのことを思うのは、独覚(どっかく:利他の説法をしない聖者)の心でございます。親もなし、子もなし、仏もなし、神もなしなどと言うのは、外道(げどう)悪魔です。悟った上にも、なおあるべきように行い努めれば、油がともしびを助けて光を増すようなものです。

 

十七 臨終のこと

 

 尋ねて言った。臨終(死に際)の覚悟というものはあるでしょうか。臨終には悪魔が邪魔をすると申しますので、魔に魅入られないように信じるのでしょうか。答えて言うには、臨終の覚悟は肝要なことです。そうは言っても、前世の報いが今現れているのですから、どのような因果によって、どんな死に方をするのかをも知らないのですから、ただ常日頃心にかけて、心の源をお知りになれば、死にざまのことはどのようになろうとも、いらぬことでございます。しかしながら、道心もない人は、その時の縁に引かれることなどもありますので、その間際にささいな事を言って聞かせたりして、執心や執着が深くならないように扱うべきです。臨終の覚悟と言うのも、以前申し上げたように、常日頃に変わらず仏の念もなく、もろもろの心を起こさず、病がいっそう苦しめるようでありましょうとも、ただこれだけの身、真実ならざる心は、夢まぼろしに過ぎないと、心を法界(世界)とひとしくして、鬼が目に見えようとも驚かず、仏が姿を現されても付き従って喜ばず、ただ何の心もなくして息が止まることを臨終と言うのでございます。理解したという身もないので、後世はどのようになるかと恐れることもなく、また仏法を理解したので地獄には落ちないはずと頼みにする心もなく、少しもとらわれる心なく、定められた終わりを驚いて心動くこともなく、例えば浜の砂を踏みますのに、牛馬が踏んで通っても砂は腹を立てず、身分の高い人が踏んで通っても砂が喜ぶこともなく、汚らわしいものを散らしても又清く、香ばしきものを落としても、砂は嫌うこともせずむさぼりもせず、何の心もない砂のようであれば、仏でございます。悪魔に魅入られない用心も別にないのです。ただ何事も一心ということです。物に移りやすく、動く心があれば、天魔(てんま、邪悪なもの、悪魔)がなぶります。ほんの少しのことにも魔のわざがあるものですので、何事をも思わず、また何事をも思ってはならないと思えばその心が思うということになりますので、何につけ見ず聞かずにいるのが肝要なのです。たとえ目に見え、耳に聞こえましても、それにかかわらず、扱わずに、その心をおさめるべきなのです。善にも悪にも打ち込んでいるのは魔の心でございます。仏も天魔も衆生も同じ心で隔てがないのでございます。