月庵禅師仮名法語(十六)

〇 また示す

 

 自分の心がもとより仏です。仏というのは、迷わない心を言うのです。迷わないところを悟れば、一切の仏や菩薩はすべて一心のうちに具わって、別の本体があるわけではありません。そうとは言っても、その徳(優れた性質)によって、しばらくの間、名前を付け替えるので、いろいろと名前が変わります。阿弥陀というのは、インドの言葉です。中国の言葉では無量寿(むりょうじゅ)と言います。無量寿というのは、量ることのできない命です。はかることのできない命というのは、生まれるようでありながら全く生まれることがなく、あたかも死ぬようでありながら全く死ぬことがなく、生死がないところ、すなわち人々の自性(じしょう、本性)を言うのである。これを阿弥陀仏と言います。薬師というのは、元来生死のないところを示すのに、仏法の薬で差別の病(本来一心であるものを種々区別すること)を治すということです。そえゆえ生死のないところを悟れば、さまざまな病はことごとく除かれます。それゆえに薬師と名付けるのです。宝生仏(ほうしょうぶつ)というのは、万法(まんぽう、すべての物事)が本来差別なく、一切の有情無情(こころの働きを持つものと持たないもの)も等しく、まったく去るとか来るとか過去や未来の道理がないことを言うのです。釈迦というのは、万法がもとより不生不滅であり、これを「諸法従本来、常自寂滅相(あらゆる物事は本来、常に自ずから寂滅の姿である)(1)」と言います。寂滅(じゃくめつ)の姿というのは、有でもなく無でもなく、前でもなく悪でもなく、生でもなく死でもなく、迷っているのでもなく悟っているのでもなく、様々な優れた姿かたちや理論を離れています。この真実の本体を示すのを釈迦というのです。これら(阿弥陀仏、薬師物、宝生仏、釈迦仏)を四仏と言います。このほかに真言宗は、大日如来を立てます。大日如来というのは、万法の正体であり、一切の根本です。たとえば大いなる日輪(太陽)が虚空に出る時、広く一切の世界を照らしてその跡がないようなものです。観音(かんのん)というのは、慈悲を本体として、音声を働きとします。勢至(せいし)というのは、正しい道理にかなってその力を施すのを言います。文殊もんじゅ)というのは、大いなる知恵を言います。大智(だいち)というのは、さまざまな見解や分別を離れた無智の智を言います。普賢(ふげん)というのは、一切のあらゆる修行を勧めて、僧となり俗人となり、男となり女となり、親となり子となり、主人となり従者となり、あらゆる人を助ける行いをなすのを普賢と言います。地蔵(じぞう)というのは、人々が本来具えもっており、各々が円成(円満に成就)している心地(しんぢ、一切の基盤である心)を言います。心地より一切の物事が出で来たります。たとえば大地が万物を生じるようなものです。虚空蔵(こくうぞう)というのは、自分の心も体も周りの世界もすべて実体はなく、虚空のようなもの。虚空のようなところから一切の物事が仮に姿を現します。それゆえに虚空蔵と言うのです。このような仏や菩薩たちは、すべて一心(いっしん)の徳(優れた性質)です。迷っているとこのことを知らずに、凡夫だと思っています。悟れば別に仏はないということを知ります。けっして外に仏があると思ってはなりません。また別の仏を頼りにしてはなりません。ただ一心が正しければ、一念一念に仏や菩薩が目の前に姿を現すのです。本当にその通りなのですが、このようなさまざまな法門は、少しのあいだ、知恵に暗く迷っている人のために名前を付け、道理を説いて真実のところを悟らせるための方便門(手段)なのです。真実のところに到達すれば、仏もなく菩薩もなく、心もなく仏法もなく、迷いもなく悟りもなく、さまざまな縛りを離れます。このところをまっすぐに信じて坐禅修行をするなら、火が燃える中に雪が積もらないようなもの。どのような道理であっても、懐に掛けとどめてはなりません。たとえ習慣のようになっている思いが起こってきても、すぐに切って捨てて二度継いではなりません。三世(さんぜ、過去・現在・未来)の諸仏や菩薩がた、歴代の祖師がたがこの世に出られ、人々のために導かれる本心はこのようなものなのです。疑ってはなりません。

 

(1)「諸法従本来・・・」:法華経方便品に出る語。