月庵禅師仮名法語(十)

〇  信秀禅人に答える

 

 坐禅の探求を行うとき、ただ昏散(こんさん(1))ばかりで、即心即仏(そくしんそくぶつ、その心のままで仏)にもなり得ない。もし昏散もない時、即心即仏とも、本分の所とも言うべきでしょうか。特別に得法(とくほう)といって悟りを開くときがあるのでしょうか、とのお尋ねを承りました。そもそも昏散は、もとより嫌うべきことでもありません。昏のときは、全体ただ昏、散のときは、全体ただ散。一つでもなく二つでもなく、同じということもなく、別ということもない。すなわち、これを即心即仏とも、またまた現成(げんじょう、目の前にありのまま現れること)する本分の事とも、本来の面目とも、天真の自性ともいうのです。迷う人は、ただこの直心(じきしん、直観の本体)を知らず、ややもすれば思考を働かせて、昏散を嫌い、昏散のないところに向かおうとします。このような心自体が自分にとって妨げとなるので、昔の人はこれを昏散の二病と言ったのです。もし直心を覚るならば、いったいどんな病があるというのでしょうか。一了一切了(ひとたび悟りおわれば一切おわる)。一明一切明(その場で明らかとなればすべて明らかとなる)。心々不可得(心をこれと把握することはできない)。念々大解脱(一念一念はすべて大いなる解脱となる)。このほかに、さらに生まれたり死んだり、来たり去ったりという姿形を求めても得ることはなく、一切の物事は本来寂滅(じゃくめつ、生滅が終わるところ(2))です。返す返すも、昏散がないところを即心即仏の本分の所と思ってはなりません。そのように思うならば、二法(二つに分裂した事柄)となってしまい、一心の道を見損なってしまいます。もしそのような考えを持つなら、みずから間違った見解を抱いて、長く暗黒の地獄に落ちてしまうでしょう。恐ろしいことです。恐ろしいことです。また、とりたてて仏法を会得して悟りを開く時があるのかという疑問ですが、これは迷った転倒した見解であり、正しく信じる道を知らないからです。ただ一念において解脱するなら、すなわち本来迷いも悟りもありません。心によって心を求めてはなりません。衆生は転倒して(ひっくり返った見解をもって)己を見失って物を追いかけるというのは、このことです。ただ、是非とも昏散の二病を心にかけず、ただちに一切の分別を断ち切って、念を追って念をつかず、勇気をもって心を励まし、死に至るまでこのように修練しなさい。必ず仏祖の教えの外に透り抜ける一路を得るでしょう。たとえまた今の一生で悟ることが遅くとも、このように修行するならば、六道四生(ししょう、(3))に輪廻する苦しみを離れて、必ず清らかで大いなる解脱という宝の在りかに到達するでしょう。疑ってはなりません。

 

(1)昏散:昏は、意識がもうろうとしてはっきりしなくなること。散は、逆にいろいろな想念が浮かんで一つに集中しないこと。

(2)寂滅:『涅槃経』のいわゆる「無常偈」と呼ばれるものに「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」(諸行は無常である。これは生滅の法である。生滅が滅し終わって、寂滅を楽と為す)とある。

(3)四生:衆生を生まれ方で四種に分けたもの。胎生(母胎から生まれるもの)卵生(卵から生まれるもの)湿生(湿気から生まれる虫など)化生(自らの業の力で生まれるもの)の四つ。