月庵禅師仮名法語(三)

〇  宗三禅閣(1)に示す

 

 大道には方向や場所はありません。目の前を離れることはなく、仏心に形はないのです。その物その物と一つになってそのまま道理にかないます。一念が生じなければ実体を脱して法身が露わとなります(脱体顕露)。疑いの心がわずかに起これば、是(肯定)非(否定)が湧き出ます。是非が湧き出れば六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)が現れます。疑いの心がやめば、永遠に離れます。そもそも疑いの心が起こることは、信じる力が弱いことによるのです。信じる力が強い時は、ただ一念です。一切が一念であれば、あらゆる事柄について分け隔てをする思いがない。隔てる思いがなければ、目前のすべての状況、一切の善悪もまったく何とも思われず、ただ一片地(一つの全体)があるだけです。さらに何の疑いが起こりましょうか。そうとは言っても、信じる力がやはり弱くて、疑いの心が少しばかり起こるのであれば、これを止めようとしてはなりません。ただ疑いの心の起きる所について、立ち返って、そもそもその疑いの心とはいったい何であるかと見てみるのです。このように行住坐臥のすべてにおいて何か行っている時に、忘れることなく、怠ることなく、しっかりと目をつけて、よくよく極めて見てみなさい。必ず忽然(こつねん)として、にっこりと笑う時が来るでしょう。重ねて偈(詩)(2)を一つ示しましょう。

 

 生死去来(生き死にの世界を行き来する者は)

 棚頭傀儡(見世物小屋のあやつり人形のごとし)

 一線断時(右往左往の糸を断ち切ってみれば)

 落々磊々(放たれて自由自在)

 

(1)禅閣(ぜんこう):摂政や関白など位の高い者で、在家のまま剃髪した者をいう。

(2)偈:この偈は世阿弥の書『花鏡』に引用されているもの。

 

〇  宗清禅閣に示す

 

 自分の心が本来、清浄(しょうじょう、けがれなく清らか)であることは、良く晴れた日の空に一点の曇りがないようなものです。森羅万象、一切の有情無情(うじょうむじょう、心を持つものも持たないものもすべて)のすべては、この光から変わり出たものです。すべて実体があることはありません。これを悟る者を仏と言い、これに迷う者を衆生(しゅじょう)と言うのです。迷うとか悟るとかいうのは、誤った心が分別するもので、仏と衆生とにはまったく別の本体があるのではありません。もし人がこのようにその場で悟りを開けば、少しの探求にもよらず、当初の心がそのまま正覚(しょうがく、ただしい悟り)の仏です。それ以上どうして坐禅修行の苦労が必要でしょうか。日頃見聞きする物事、行住坐臥、すべての時において着々と滞りなく活き活きと解放された姿(着々活脱)そのもの、立ち現れた仏心そのものとなる(現成受用)所なのです。

あなたがもしまだ悟っていないのであれば、ただこのように即座に信じ受けて、何とも知られない所に向かって念々、志を励まして、自分の心の根源はどのようなものかと極めて見てみなさい。極め極めてどうしようもなくなった時、志を緩めてはなりません。いよいよ知られなけば、ますます励みなさい。たとえ今の一生で明らかにすることができないとしても、この信じる力によって来世には必ず大解脱(げだつ)(1)の所に至るでしょう。疑ってはなりません。

 

(1)解脱:欲望、執着、輪廻の苦しみから解き放たれ、解放されること。