2019-02-01から1ヶ月間の記事一覧

至道無難禅師「無難禅師道歌集」(4)

六十三、 いろいろと苦しむ人に 何事も修行と思いする人は 身の苦しみは消え果つるなり (何事でも修行と思ってする人は 身の苦しみは消え果るのである) 六十四、 徳山(とくさん)*について 天地(あめつち)の外まで満つる一棒に 仏さえなくなりにけるか…

至道無難禅師「無難禅師道歌集」(3)

四十一、 大法を理解できない人に あきらけき仏の道に入り得ずば ただ怠らで願え後の世 (賢明な仏の道に入ることができないのであれば ただ怠らないで、死んで後の世を願いなさい) 四十二、 心の鬼を問う 世の中の人は知らねど罪あれば わが身をせむるわが…

至道無難禅師「無難禅師道歌集」(2)

十六、 道を問う 鶯の子はまがいなきホトトギス 何とて声の別に鳴くらん (鶯の子はまぎれもなくホトトギスである* どうして別の声で鳴いているのであろうか) *ホトトギスは自分の卵を鶯の巣に産んで鶯に育てさせる習性があることを言う。 ここでは、苦し…

至道無難禅師「無難禅師道歌集」(1)

*〔底本:公田連太郎(編)『至道無難禅師集」春秋社、昭和31年〕 *〔 〕はブログ主による補足。 [ ]は底本編集者による補足を表す。*はブログ主による注釈。原文はひらがなが多く、以下はあくまでもブログ主の解釈です。 ーーーーーーーーーーーーー…

至道無難禅師「龍澤寺所蔵法語」(4=終わり)

若い僧に、善と悪は同じか、同じでないかと問うたところ、口を動かそうとした時に棒で打って、どんな邪正があるか、と言うと悟る。 お経を研究するある僧が、悟りはまったくない。せめてお経を読んで助かりたいと言ってお経を広げたのを、引き取って、そのお…

至道無難禅師「龍澤寺所蔵法語」(3)

真実にかなった問いをした人がいた。私は教えて言った。その問う主(ぬし)は誰か。彼は言った。知らない。私はまた問う。その知らないものは誰か。彼は言った。何も無い。また言う。いろいろと変わるものは誰か。彼は言った。もとは何も無いものである。私…

至道無難禅師「龍澤寺所蔵法語」(2)

我が禅宗の根源は、本来のところを究めて、自分の身を正しくすることである。 ある時、達磨の絵を持って来て何か書けと言ったので いかにしてこれほど嘘を付きぬらん さりとてはなき悟りなりしを (どうしてこれほど嘘をついたのだろうか 悟りといっても、ほ…

至道無難禅師「龍澤寺所蔵法語」(1)

*〔底本:公田連太郎(編)『至道無難禅師集」春秋社、昭和31年〕 *〔 〕はブログ主による補足。 [ ]は底本編集者による補足を表す。*はブログ主による注釈。原文はひらがなが多く、以下はあくまでもブログ主の解釈です。 ーーーーーーーーーーーーー…

至道無難禅師「自性記」(11=終わり)

一、老婆にあう。本則*に取り組まれているとのこと。則は何ですか。お婆さんが言う。「阿誰(たそ)」**です。私がよく教えましょう。お釈迦さまも弥勒菩薩もすべて使うものがあります。こちらにおいでなさい、と言うと、お婆さんはそのまま近くに来た。…

至道無難禅師「自性記」(10)

一、孔子は「私の道は、一つのことがこれを貫いている」*とおっしゃっている。心は天地に通貫するということである。仏法でいう「摩訶般若(まかはんにゃ)」**のことである。 *『論語』に出る言葉。 **「摩訶般若」:魔訶は「偉大な」般若は「知恵」…

至道無難禅師「自性記」(9)

一、ある人が尋ねた。生きとし生けるもの、その姿かたちはいろいろであるが、本来決まった根源があるのだろうか、と。私は言った。根源がある。心は天地一体である。彼が言う。一体である印は何か。月を見、花を見、鐘を聞く、誰か違いはあろうか。これが一…

至道無難禅師「自性記」(8)

一、「その気持ちを誠実にしようと望むものは、まずその知を達成する。その知を達成するというのは、物を究明することにある」というのはどういう事か。私は言った。これは、確かな教えである。「物にいたる(物を究明する)」と言ったのは、極意である。本…

至道無難禅師「自性記」(7)

一、修行を深く思って、厚くみることによって誤りが多い。本来空を知らねばならない。心の念を払い尽くしたところである。六祖大師は、菩提(ぼだい)の自性(じしょう)(悟りの知恵を備えた自分の本性)は、本来清らかなもの、これを用いて、じかに悟って…

至道無難禅師「自性記」(6)

一、先日のこと、ある一国の大名に仕える侍が、百姓の代官をしていたのだが、急に死んでしまった。妻子が嘆く様子は耐え難いものであった。特に、金銭の出納をどうしようかと苦しんでいた所に、若い下女が急にものにとり憑かれたようになり、亭主の座るとこ…

至道無難禅師「自性記」(5)

一、ある時、人を待っていたが来なかった。どういうわけだろうか。 一、ある時、待っていた人の事を強く心に思っていたが、急に忙しい用事が出来て、待っていることを忘れていたら、その人が来た。 人を待っているのに来ない。人を待たないのに来る。このよ…

至道無難禅師「自性記」(4)

一、ある世捨て人が語ったのだが、加賀の国(今の石川県の一部)の宮ノ腰(金沢市犀川河口の金石港の旧名)を通ったとき、ある所で宿を借りた。亭主がいろいろと話して、夜になり、帳(とばり)の向こうで、むくむくという音が二三度したので、亭主に聞いて…

至道無難禅師「自性記」(3)

一、ある人が求めるのにまかせて、語った。 本来無一物は、如来である。常に用いなければ大いなる悪念となる。常に用いるときには大慈悲心となり、あらゆる事柄に対応してどこまでも円(まど)かで明らかである。物に対応するときに円かな心になれば、如来が…

至道無難禅師「自性記」(2)

老いの波が打ち寄せて来て、世間でも稀な年齢になった。夜、灯火のもとで昔のことを思い起こすと、私の友人は世を去ってもはや一人もいない。今夜にでも私もそうなる身の上であろうか。多くの人を見聞きしてきたのでその事を書き付けました。言葉の足りない…

至道無難禅師「自性記」(1)

*〔底本:公田連太郎(編)『至道無難禅師集」春秋社、昭和31年〕 *〔 〕はブログ主による補足。 [ ]は底本編集者による補足を表す。*はブログ主による注釈。原文はひらがなが多く、以下はあくまでもブログ主の解釈です。 ーーーーーーーーーーーーー…

至道無難禅師「即心記」(11=終わり)

この世で親のかたきを討たないのは、一生の恥である。この身をここで殺さなければ、永遠の苦しみである。この身を殺すのは、直(じか)に如来になれば殺すのである。大乗、最上乗*の教えにふさわしい人には、如来を教えて、さまざまな定めについては言わな…

至道無難禅師「即心記」(10)

一、維摩居士(ゆいまこじ)*は、一度に二三百人を悟らせになった。大唐(中国)の六祖大師は、柴を売って生業をたてていたが、如来が説きおかれた経に、何も無いところから出る心は万事によい、と人が読んだのをお聞きになって、直に悟りの心を開いたと、…

至道無難禅師「即心記」(9)

一、火のそばは暑い。水のそばはひんやりしている。大道人のそばへ寄れば、身の悪は消えるのである。これを道人というのである。軽々しく道人というのは恐ろしいことである。 私の寺の信徒に定めおくこと 一、坊主は天地の大極悪である。為すこともなく世渡…

至道無難禅師「即心記」(8)

[寛文十一年版にはここに即心記(下)という標題がある] ある人が仏道について尋ねたので答えて 松風を麻の衣に綴じ付けて 月を枕に波のさ筵(むしろ) (松を吹く風を粗末な麻の衣に綴じつけて 月を枕にし、波を筵にして寝る) 仏はと問えば迷わぬ人ぞ無…