至道無難禅師「自性記」(4)

一、ある世捨て人が語ったのだが、加賀の国(今の石川県の一部)の宮ノ腰(金沢市犀川河口の金石港の旧名)を通ったとき、ある所で宿を借りた。亭主がいろいろと話して、夜になり、帳(とばり)の向こうで、むくむくという音が二三度したので、亭主に聞いてみると、あなたを泊めたのはこれを見せるためなのです、御覧くださいと言うので、奥に入って見ると、二十歳過ぎほどの男が、首に蛇が二匹巻き付いていて、頭を向き合わせて二匹並んでいる。この頭が、男の首が曲がるときに、回って行くので、むくむくと響いたのである。これはどうしたことかと尋ねると、亭主が言うには、私の子です。女を呼んで妻にしたのですが、女の使っていた下女に手を出して、あるときに嫁がこの下女を連れてこの渡し場を越したのですが、川の中ほどで下女を突き落としたところ、下女は主人の着物の袖に取りすがったので、二人とも死んでしまったのです。その後、この男が、渡し場のあたりで足をいじっていたのですが、蛇が二匹来て、首に巻き付いたのです、と語る。大変悲しい事である。

 

一、ある浪人が、京都の五条に宿を借りて、裏の方に住んでいた。十二月の頃、夢に子供が出て来て、「もしあなたがお金を欲しいと思うなら、はやく五条の橋へ行って、橋のたもとにあるから、拾いなさい」と夢に見た時、妻にこうこうと話すと、急いで行って見てくださいと言う。月が照り輝き、霜も白くおりていて寒い時期であったので、起きがたかったけれども、妻が強く行かせるのに従って、行ってみると、皮袋をひろってきた。妻にこれだと言うと、妻も喜び、ありがたいと言って急いで開けてみたが、茶碗の割れたのや、瓦の欠けたの、石などが紙に包んであった。さてさてこれでは仕方がないと、藪へ捨ててしまった。夜明け方に、亭主が呼ぶ。夫婦一緒に行って食事を振る舞われたのだが、亭主は福振る舞い(良いことがあったときのおすそ分け)だと言う。詳しく聞くと、皮袋の口が開いていて銀貨が捨ててあったという。浪人は、さきほどのことを亭主に話した。ある人はこの話を聞いて、皮袋の口を早く開けすぎたので、福も人のためになっってしまったのだなと、それぞれに言ったけれども、身の悪のためであると嘆き、悪いのは人にもきまりが悪いと思って、自分の身の悪を消し去り、仏道に励む人はない。過去の業を知る人はない。情けなく悲しいことである。

 

一、悟りとは、自分の心をいうのである。悟って、身の悪がすっと無くなった者もいる。過去に行った修行の力である。心は鏡のようである。わが身の善悪を知るものである。人となれば、身の悪を残りなく消し去ることができるのだから、ありがたい姿である。他の姿をうけたのでは、できないことである。身の悪が消えれば仏である。

 

一、ある人が、悟りについて尋ねた。答えて言った。悟りは仏の目(まなこ)である。仏の骨髄である。直(じか)に成仏して大安楽である。常に心にかなわない事はない。そのようなありがたいものであるけれども、悟りは仏の大いなる敵である。疑ってはならない。悟って、あらゆる物事を離れたところにおいて、ほんの少しでも知るものがあれば、あらゆる物事にかかわらない所は、ただちに親を殺し、主君を殺し、自分の思うままにまかせるので、仏敵は悟りなのである。

 

一、悟って修行して、身もなく、念もなく、知るものも、知らぬものも無くなりなさい。これは、つまり悟りを元にしなくては、できない事である。本来の心が空であることに到達しなさい。三事相応(さんじそうおう)*は、自分ひとりの及ぶところではない。今の世はすでにそうである。ただいま、仏法の大道を獲得しなければ、いつそれをすることができますか。

  三千世界は本心のからだ

  誤って少しでも自分の心を立ててはならない

  自分の心を立てれば天罰を受ける

  天は少しも、もろもろの生きとし生けるものを罰するものではない

  自分の心がそのまま塗炭の苦しみに落ちるのである

  永遠の時間に幾千の生涯をへめぐって仏の境地に遠いままだ

  たまたま仏心を得、仏の身を獲得して

  どうして、ありのままの本心の真理を用いないのか

  物に対面すれば水中の月のようである

  行き渡らない所などなく、滞る所もない

  あらゆる事柄を離れて、本来の空である

  昔も今も変わらない、これを仏法という

 私の弟子は、文字を知らないが、この意味のことを述べた。

  恐ろしき浮き世の中をそのままに

  仏はものに障らざりけり

 (おそろしく、はかない世の中をそのままにして

  仏はものごとに妨げられないのである)

 *三事相応:三つの事柄が合致すること。前出の法話で、国が平和であり、人々の心が落ち着いており、仏道が行われること、の三つの合致に言及している。江戸時代になって戦が終わり、世の中が落ち着いたことを言われているのであろう。

 

一、ある人が、仏事でのお布施の仕方を尋ねた。私は言った。三銭(せん)*のお布施をする人はけっしていない。三銭のお布施を受ける坊主はいない。彼は聞いた。三銭のお布施とはどのような事ですか。私は言った。世の中に、三銭をおしむ人が誰かいるだろうか。例えば千貫万貫のお布施も、三銭を出す気持ちでしなさいという事である。仮にもお布施は大切な事である。死人のためにするものである。まったくの真実の心から、自分の思うだけする人はいない。あるいは自分の役職によって、あるいは回文をしたり、またこれでは多すぎるなど言って、作法を忘れて死人のためにする人はいない。また呼ばれて来た坊主も、万貫のお布施も三銭であるかのように思わなければ、すぐにその弔いは間違ったものとなってしまう。生まれ変わった後の世では畜生(動物)になることに疑いはない。

*三銭:銭は江戸時代の貨幣の一番下の単位。1000枚で1貫。