至道無難禅師「自性記」(5)

一、ある時、人を待っていたが来なかった。どういうわけだろうか。

 

一、ある時、待っていた人の事を強く心に思っていたが、急に忙しい用事が出来て、待っていることを忘れていたら、その人が来た。

 人を待っているのに来ない。人を待たないのに来る。このように、思っていることがかなわない事もあり、思っていることがかなうこともある。

 

一、天のなす事は、自分の知るところではない。確かに、自分の道を守っていれば、自然と悪いことは逃れて、良いことが集まるのである。疑ってはならない。

 

一、いろいろな事を書き集めて、人のためにと思うのは、この世ばかりの事と人々は思っている。情けなく愚かなことである。姿かたちは死んで無くなる。念は死なずに、生を次々と変えて、どのような姿にも移り変わることを知らないで、姿の良いときには驕りを極め、姿の悪く貧乏なときには、へつらい、世間で欲をむさぼるので、仏道の確かなことを書き写しておくのである。このような事がたくさんあるけれども、大事とは知らないで、面白い物語だとだけ見て、自分の事と考える人はいない。恐ろしく悲しいことである。私の門弟である者は、必ず心得て慎み、この恐ろしい所、ありがたい所をよくよく見知り、ずっと後の世まで仏道の大法を知って、世界のある限り修行に勤めれば、悪いことはきっと無いのである。

 

一、上に立つ者の知らない悪というものが、下にはことのほか多いのである。上に立つ者は、必ず、身を正しくし、慎み深くあれば、下の者の悪は、必ず無くなる事は、確かである。下の者の悪を退けようと思うことなく、自分の身の業が尽きないことを仏に嘆いて、自分の業が尽きれば、ついには下の悪も良くなること、疑いはない。下の悪人を遠ざけようとしてその悪人を強く痛めつけたりなどすれば、その悪は消えずに、別の悪に変わるのである。とにもかくにも、身の罪だと知って、自分の身の悪を残りなく消し去りなさい。上に立つ者が正しいうちは、下の悪に負けないものである。上が悪ければ、下が良くても、ついに家は滅んでしまうこと、疑いはない。

 

一、天は身がない、念がない、心がない、良し悪しがない。

 身があれば、八万四千の悪念がある。身のために苦しむこと、確かである。

 仏法の大道を心がける人にとって大事なことである。

  憂きものと思いながらもさりとては

  身にばかさるる心なりけり

 (いやなものだと思いながらも、それでいて

  自分の身にばかされてしまう心なのである)

 

一、孔子が世を去られて千年後に、程子(ていし)兄弟*が世に出られて孔子の道を継ぎ、その言い伝えが今にまで至って、儒道の元祖になっている。視箴(みるいましめ)**に、〈目の前に交わることを覆ってしまえば、心の中はたちまち動く。これを外で制御して、それによって心の内を安らかにするのである。〉とある。まったく道理にかなったことである。私は思うのだが、後世の人が必ず間違うことを知っていて、言葉をお残しになったのであろう。私は、程子の心をうけて言うが、たとえば甘い味を言葉で教えることはできない、甘い物を与えてその味を知らせるようなものである。孔子の心をもってあらゆる事柄に向かえば、迷うことはない。

*程子兄弟:中国宋代の儒学者、程顥(ていこう)程頤(ていい)の兄弟。後に出る朱子の思想と合わせて程朱学と呼ばれる、儒学の流れを作った。

**視箴:程頤が書いた四つの戒め(視箴言・聴箴・言箴・動箴)の一つ。

 

一、ある人が言うには、この国は神国である。幸いにも昔から用いて来た神道をやめて、仏道をおこなうことは大きな過ちであると。私は言った。愚かしいことである。この国の神というのも、心のことである。ある和歌に、

  心だに誠の道にかないなば

  祈らずとても神や守らん

 (心さえ誠の道にかなっているのであれば

  祈らなくとも神は守ってくださるであろう)

 この和歌のようなものはたくさんある。それだけでなく、高天原(たかまがはら)*は人の身を言うのである。「神とまる」**というのは、胸の内が明らかだということである。この心の事である。儒教の根本も心の事である。インドの仏も心の事である。三国(インド、中国、日本)で心のことを取り上げているのは確かである。儒道、神道では、身を正しくして、胸を明らかにすることである。インドは、身をなくして、じかに心を明確にした。それゆえに、インドでも慣れ親しんでいる仏の移り行きなのである。昔からその道の聖人を崇め奉っているのである。だから、仏道が盛んであれば誤りはない。他人と自分の隔てがなく、物事が素直である。上の者が一人この道を修行なされば、その下に住む者は、誰が苦しもうか。人が苦しむのは、自分を立てる悪念である。この悪念が向かう所で苦しむのである。上の者一人の悪は天下の苦しみ、国は国の苦しみ、家は家の苦しみである。上の者が一人、仏道をなさって天下の上にいらっしゃれば、天下をすべて自分の子だとお思いになる。天下の民衆は、親だと崇め奉るであろう。人々は、平常の心を知らないで、身を思う悪念にまかせているので、悲しいことに、自分の目、自分の耳口鼻手足にいたるまで、心の敵となって、その苦しみが向かう所、人は言うに及ばす、草木や国土までも苦しめ、短い命のうちに、何をするにつけてもわが身をじかに地獄、餓鬼、畜生、修羅として、天下を保ち、国を保つことができず、それよりも下の者は、あるいは財宝を持てば財宝に苦しめられ、貧乏であれば貧乏に苦しみ、死んでから後はじかに畜生(動物)の姿を受けること、疑いはない。

高天原:日本の神話で、天の神が住んでいるとされた世界のこと。

**「神とまる」:祝詞(のりと)の最初に「高天原に神留坐す(かむづまります)」とある事を指す。神がいらっしゃるということ。