*〔底本:公田連太郎(編)『至道無難禅師集」春秋社、昭和31年〕
*〔 〕はブログ主による補足。 [ ]は底本編集者による補足を表す。*はブログ主による注釈。原文はひらがなが多く、以下はあくまでもブログ主の解釈です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
〇
心、仏と言い、神と言い、天道と言い、菩薩と言い、如来と言い、天照大神と言い、いろいろの有難い名前は、みな心の呼び変えなのである。
心のもとは、無一物である。
心の動くのは、第一に慈悲であり、素直であり、和やかであり、ものの悲しみを知るのである。
主君に向かえば忠誠を思い、親には孝行を思い、夫婦、兄弟、友達でも、道を正しくしようと思うのは、この心の本心である。誰でも知ることである。疑いはない。
身に八万四千の悪がある。人となって身を思わないものはない。心の善事は、身の悪が出て来て一つも行うことがない。これは人々が知る事である。
お釈迦様が世に現れなさって、身の悪を消し去り、悪なければ身はなく、身がなければ仏であるとお教えになったことは、たいへん有り難いことである。間違いなく仏というのは、人の身にある心のことである。
心は本来無一物である。修行というのは、常に無一物になるのをいうのである。
身に悪があれば、無一物になることはできない。それゆえ悪を消し去り尽くす時、見たり聞いたり気づいたりする主(ぬし)は、確かに無一物なのである。
よしあしをあらためぬれどよしあしを
あらたむるものさらに無きなり
(善し悪しを確認はするけれども、善し悪しを
確認する者はまったく無いのである)
これは確かに自分が仏になって、常日頃何をするにつけてもの作法である。疑ってはいけない。
人がいつも誤る事
他人の死を知って自分の死を知らない
貧乏を苦しんで逃れることを知らない
本来無と言えば無と知る事
悟らなければ仏道は成就できないが、悟る人はまれである
仏道に法(理論)を立てること
他人に騙されるのを嫌い、我が身に騙されるのを喜ぶ
神仏に祈る人はあるが、身の仏を敬わない
仏道の根本に到達しなければ、身を守る事はできない
他人の作法を詮索し、我が身が不作法である事
至道庵主 印
〇
仏道を成就しようとする大願を持つ者のあり方の事
一、一文字を知らずとも天下の事は明らかである
一、一言も語らずに対面する人は心得て帰るのである
一、あらゆる事柄について思うままにして悪い事がない
一、あらゆる事柄の大きな難事を逃れている
一、生き死にを離れて常にいるので、ものに苦しむ事がない
このようになるように修行する事なのである。かえって居所などを求めたり、衣食住の蓄えなど少しも求めることなく、天に任せていることである。とてもそのようになる事は難しいのである。無理をして物知りになることももっともな事である。第一に自分の意志や自分の知が多く、傲慢になっているので、さあ何とか直してほしいものだと思うのである。以上。
無難 花押
全徹老さま
〇
悟って悟りなし
迷って迷いなし
有(う)になって有なし
無(む)になって無なし
偽(いつわり)も誠(まこと)も絶えて本来は
知るも知らぬもあやまりとなる
(偽りも誠もまったく無くなって本来は
知るのも知らないのも間違いとなる)
至道庵 印
〇
天と自分と一体である。
日も月も常に照らしているといえども、雲が隔てる時は明らかではない。
我が心も常に素直であるといえども悪念が出て隔てる。
修行は、本心を悪心をもってけがせば、必ず罰(ばち)を受けるのである。
本心が常に安楽であればあらゆる事柄を離れる。それゆえ修行して悪心がなければ、天と自分と一体である。このことは言葉で言うに及ばない。
至道庵
〇
二十五日のお返事、いちいちもっともでございます。いっそ学問をした方がいいのでございましょう。こちらは七十四歳の愚僧である事、よろずご推量ください。おりしも手紙など頂戴したのを見て、昔を思い出したのです。
一、確かに仏法を間違って教えてきたので、どこにも無い事なのでございます。先日お送りした法語のほかは誤りでございます。あなたも含めてみな後世を願うのでありますから、どうしようもないことです。
大道がじかに確かに自分にあることをよく理解する事がもっともよいので、いっそ無難の弟子となって本来の無一物を確かに見、確かにそれになることが第一の事でございます。
一、ある人に、衝いた鐘を聞かずにお聞きなさいと言いました。理解したところを落ち着いて話されました。よくよくご理解ください。
一、大事なことは、身をなくすだけのことです。以上。
卯月(旧暦四月)五日
無難
全徹老さま
〇
近頃お目にかかりたかった所、詳しい手紙をいただき過分に存じます。
一、仏道を志す者の本心では、山や谷や海辺のどこでも隔てなく、元来定まった住所なく、あらゆる事柄を時にまかせるままなのですが、今時分は、さまざまな事柄が変わってきまして、私どもの方でも五十両で一カ所の古い寺を買い求め、三十両で屋敷を買い、二十両で屋敷を買い、去年今年とこのように買い求めたのでございます。自分の気持ちには合わないのですが、時流は逃れ難いのであります。さても昔と物事が違ってきていることは不思議に思いますが致し方ございません。
一、今手元に五十両持っておりますので、そちらへお返事によって来春にお送りすることができます。もとより図らずも集まったお金ですので、私どもが手元に持っておりますと死に際に人から悪く言われるような事なので、どこへでも使ってしまいたいのですが、集まることも集まらない事も自分の思う通りのことではないので、始末がつけられないのです。ただいま手元に五十両、人に預けておいてあります。
一、こちらで一人に十五両、一人に十五両、一人に三十両で六十両必要なのですが、これは来春あるいは来年中に準備できればよく、お入れください。最終的に無くてもかまいません。これはその時々次第でございます。私共の申し上げること、確かにそちらでもご理解いただけるでしょう。少しも知恵も才覚もないのでございます。
一、文蔵主(ふぞうす)*は、ことのほか身に業がお入りになっているので、業を弔うのがよろしい。業が入っているあいだは、なかなか思う事がかなわないものでございます。
*文蔵主(ふぞうす):蔵主はお経をおさめておく経蔵を管理する僧。
一、ちかごろ、四百石(こく)*ほどの収入のある人が仏道の心を起こして、申し寄こさせたのでございます。この秋に、三十両でたいへんよい所があるので準備して使いましょうと自分でも請け合い、主人も喜んでいましたが、その身に業がお入りになっていて、入札がほかのところへ落ちました。このようなこともありますので、文蔵主も知恵が多く、業が多いので何とも可哀そうに思います。業さえなくなりましたら、どちらでも人が用いるようになること疑いのない事でございます。
*石(こく):量の単位。米1000合で成人の一年分の食糧にあたるという。
一、私共はいろいろと一門眷属がみな知るほどの人々を弔いまして、今ほど業が減りまして、これは以前とはずいぶんと様子が違うのでございます。今、江戸で無難を知らない者は人では一人もないのでございます。
これはみな、業がなくなったからでございます。
一、ちかごろ、ある人とよくいたしました事など語ることは数限りないことでございます。
一、法語を二枚、遣わせますので御覧ください。このように何とはなしにつらつらと胸から出ました事です。さても不思議な事がございます。おそらくお城へ無難の仏法が入ることになります。ちかごろお城より確かに奥*の方で人が無難の仏法を評判にしているのです。上様がよくお思いになっている方が、私共に会いたがっており、霜月(陰暦十一月)二十一日に約束したのですが、大地震があってその日が伸び、殿も残念がられておりました。
奥:夫人たちのいる所。
一、比丘尼(びくに)*五人、ほうぼうに勧め歩いていて、たいていの僧侶も及び難いのでございます。このようになること、不思議なことでございます。以上。
一、仏法が日本に渡り千年になりますが、今ほどはっきりとしてきたことはありません。申し上げたいことはたくさんありますが、筆をおくことにいたします。以上
十二月七日
無難 花押
全徹老さま
*比丘尼:尼僧のこと。
〇
得度の折に詠んだもの
いままでの身をば虚空に使わせて
使わるる身も無くなりにけり
(今までの身を虚空に使わせて
使われている身も無くなってしまった)
弥生(旧暦三月)の日
無難
(終わり)