〇細川氏所蔵法語一軸
ある人が地獄について尋ねた。私は言った。あなたが身に責められる時を言うのだ。極楽について尋ねた。身の責めが無い時を言うのだ。仏について尋ねた。心身ともに無し。彼はいった。死人と同じではないか。私は言った。生きながら死人となることである。我が禅宗の悟りである。
あなたの昔から今に至る苦しかったことや楽しかったことがいま有るか無いか。彼は言った。無い。
人の身の作法をさらに変えずして
悟りて見ればただ何も無し
(人の身の振る舞い方を何も変えることなく
悟ってみればただ何も無い)
人の身の作法をさらに変えずして
迷えば常に苦しかりけり
(人の身の振る舞い方を何も変えることなく
迷っていれば常に苦しいのである)
至道庵 無難
〇別府氏所蔵法語一軸
一、本来無一物ということ、たとえば坐禅してみて、身がおさまり心をおさめ、念をおさめることによって無一物だと、人々は間違っている。本来無一物というのは、心身がすっと無い事である。ここに到達して、仏のお説きになった極楽という事は確かである。地獄、餓鬼、畜生、確かである。ここに到達しない人の、いろいろと評判になるようなことを言い出しても、真実から出ていないので、言葉と身の行いが違うのである。
〇至道庵蔵法語一軸
古い有徳の人物の言葉を聞いて、自分に聖人の徳があること確かである。
諸悪莫作、衆善奉行(しょあくまくさ、しゅぜんぶぎょう。もろもろの悪事をするな、もろもろの善を行なえ)。*
常にこの心が人にはある。迷うから知らない、悟るから知るのである。
悟って修行すれば身がなくなること確かである。
この時、生き死にやあらゆる事柄をのがれるのである。
至道庵主
*諸悪莫作、衆善奉行:過去に現れた七人の仏陀が共通して説いた教えと言われる七仏通戒偈の前半。自浄其意、是諸仏教(じじょうごい、ぜしょぶっきょう、おのれの心を清くする、それがもろもろの仏の教え)と続く。
〇石井氏所蔵真蹟道歌の終わりの一章抄録
仏道が我が国に渡ってきて千年になる。誰もみな道に迷い、法華宗、浄土宗の争い、禅宗は禅宗と争っている。大きな誤りである。
釈迦如来の心身が消え果ててお説きになった仏道である。ここに到達すれば、阿弥陀仏と言うのも、妙法と言うのも、阿字本不生と言うのも、みな悟りの一真実から出るのである。修行に赴く人は、身を無くする他はないのである。
一、神道の大事
高天原(たかまがはら)に神とまると言う。高天原とは人の身である。神とまるというのは胸の内が明らかである事である。
一、儒者の大事
天命性と言う。
天とは身のほかを言う。何もなし。命とは胸の内が明らかであるのを言う。主命(主人の命令)と言うのも同じである。その明らかであるのを性と名を付けたのである。
中国と我が国と同じことである。
インドの教えは、身をなくすので、じかに天になるのである。じかに神になるのである。中国、我が国は、身の内で修行をおこなうので、苦しむのである。身に八万四千の業があるので、修行しても修行しても、また元の悪に立ち返るのである。インドの教えは、じかに身を破るので、身がなくなって虚空と一体であるから、何も悪いことがない。このようであるから、中国、我が国の優れた人々が、インドの教えのありがたいことをお知りになって、今にまで絶えないようにさせたお教えなのである。そうではあるが、正しい仏法が絶え果ててしまい、残念なことで、法師は僧衣を着て俗人の前で畏まっている。これはみな世渡りの仕方に倣っているので、情けなく、涙も落ちる恐ろしい事である。俗物の凡夫のいやしい者の前に、釈迦如来がおどおどとして、じかに仏罰を受ける事、何の疑いがあろうか。
これは、身分の高い人の娘さんがお求めになったことを奇特なことと思って、筆をとって書き送るのである。
寛文九己酉(1669年)仲秋(陰暦8月)の日
至道庵主これを書く
昔、私が読んだ和歌を一休禅師の和歌といって人々が唱えたので書いておく
松風を麻の衣に綴じ付けて
月を枕に波のさ筵(むしろ)
(松を吹く風を粗末な麻の衣に綴じつけて
月を枕にし、波を筵にして寝る)
〔 〇賦青何連歌 省略〕
〇
つらつら思うに、今までいた世は、世間に縛られて、自分ひとりではなく、人も縛られて、あれやこれやとものを思っていた情けなさ、
いま見れば苦しみとなる世の中は
それこそそれよじきの弥陀仏
(今見れば苦しみとなる世の中は
それこそまさに阿弥陀仏そのものである)
この和歌の、「今見る」ということを、よくよく心して御覧ください。
寛文九己酉(1669年)霜月(陰暦11月)の日
至道庵主 印
〇達磨賛
心さえただ本来の塵なれば
まことの道は何を教えむ
(心といってさえ、本来からすれば塵にすぎないのだから
真実の道はいったい何を教えるというのか)
(終わり)