至道無難禅師行録(2)

すぐその日に髻(もとどり)を切り、髭と髪を洗って、自ら国師の前にひざまずいて言った。私は長い間、機会を求め、幸いに世俗の塵を脱します。出家する時が来ました。どうかお慈悲を頂かせてください。国師は笑って得度させ、名付けて無難とした。これより国師の身近にお仕えして、朝夕求道した。ある日、至道無難の話〔もとは三祖僧粲(そうさん)大師」の『信心銘』に出る語で、公案集『碧巌録』第二則になっている〕を透過し、趙州(じょうしゅう)・雪竇(せっちょう)二人の大和尚の平生の境地を徹底して会得した。これによって国師は、また、至道庵主の号と、日常自分が持っている払子〔ほっす、僧が持つ道具の一つ〕を授けて、法統を継ぐ師としての新たな生涯が始まることを示した。詩を作って言う。「三祖僧粲大師が信心銘を書いてから詩句や文言が禅寺で盛んに用いられている。どこに言句をもてあそぶ必要があるか。寂寥たるこの真実は古今に渡る」。さらに一つ、「三祖が銘を書いて信心と名付けた。〈ただ選り好みを嫌う〉というのは昔も今も同じ。どうして私の在り方が彼と異なろうか。山はこれ自ずから高く、海は自ずから深い」と。この時は慶安二年(1649年)で、師は四十七歳であった。これ以来、各地の禅寺を訪ね歩いて、禅風を探索し、あるいは山林に逃れて徳を積み、道を養った。その修行の辛苦惨憺は、今どきの修行者の遥かに及ばないところである。その昔、東陽英朝和尚(1428年~1504年)は雪江宗深禅師(1408年~1486年)について修行して碧巌録百則を吟味した。それを書写した正本が代々伝えられて愚堂国師に渡っていた。国師はながらくこれを所蔵して常に味わっていたが、師に並々ならぬ資質があるのを見て、夜密かにこれを託した。師はお礼を言って去り、武蔵野国麻布の東北庵(桜田百姓町にあり、後に東北寺と改称する)に住んだ。みずから至道庵主と名乗った。羽州(出羽の国)米沢の大名である上杉氏、濃州(美濃の国)加納の大名である安藤氏、同じく新たな加納の城主、坪内某氏等、みな弟子として振る舞った。師は庵では規則にこだわらず、僧衣や仏具を蓄えず、寺院の威風は峻厳で、行脚の僧は寄り付けずに退いた。

 

師は平生、皆に示して言うには、仏道を学ぶのは別に道理はない。ただ直接見て、直接聞くことが必要だ。直接見れば見るということはなく、直接聞けば聞くということはない。なんとしても、内も外もなく一つに成った境地に密かに自ら至って初めて会得できるだろう、と。

 

師は平生、皆に示して言うには、あなたがたは各々みな、そのままで仏なのだけれども、かえってそれを知らない。もし知れば仏陀や祖師たちに背き、知らなければ生き死にの世界を輪廻する。この真実の所に到達して、さらに最後の境地に進むもう一つの目をもつ者でなければ、どうして得ることができるだろうか、と。そこで詩を作って言う。「根元を確かに見届ければ、あらゆる事柄を離脱する。誰かこの言句の外の所を知るだろうか、この仏陀や祖師たちも伝えない所を」と。

 

ある僧が尋ねた。大乗とはどのようなものですか。師は言った。身を正しくして守ることのないのを、大乗と言うのだ。僧は言った。最大乗とはどのようなものですか。師は言った。身を好きなようにして守ることがないのを最上乗と言うのだ。この意味は深くて繊細であり、見通すことは難しい。人が間違って理解することがなければよいが、と。

 

師は、皆に示して言った。我が禅宗は、特に悟りをもって根本とするといっても、必ずしも悟り終わればそれで済んだというわけではない。ただ、仏法に添って修行して道を究め尽くすことが必要である。仏法に添うとは、本心を如実に知ることである。修行は、正しい知見をもって業障(ごっしょう、業からくる障り)を除き滅することである。そもそも道を悟ることはむしろ簡単であろう。それを実践する工夫が、もっとも難しいとされる所なのである。それゆえ達磨大師も言っている。「道を知る者は多く、道を行う者は少なし」と。ただ日夜、金剛王宝剣(こんごうおうほうけん、ダイヤモンドのように固く、あらゆるものを断ち切る宝の刀)をふるって、本当にこの身を殺しなさい。この身が亡びるときは、自然に大解脱、大自在の境地に到達しないということはないのである、と。

 

師は、皆に示して言った。あなたがたがもし本当に本心を見ることができたらなば、赤ん坊を直接養うようにしなさい。何をするときでも、目覚めた心で細心に注意して、その本心を七情(七種の感情)で汚さないようにしなさい。もしよくこれを守ることができて、すっかり明らかであるなら、たとえば赤ん坊が次第に成長して父親と等しくなるように、知恵と禅定とは透徹して、日ごろの在り方は仏陀や祖師たちと変わらないであろう。このような一大事を、かえってどうでもよいことと見ているのはどうしたことか。今、人の身を受けていることが最も尊いことだというのは、他の事ではない。ただこの生涯において、真の解脱を得ることによるのである。それなのに利益を求めて身を肥やすことばかりを第一に考え、いつも妄想のために使われて、はからずも命が終わるときになって悔しがっても、なんの益があろうか。仏が世にお出になって、迷いの道を示され、じかに本心を指して、生き死にやあらゆる事柄を離れさせた。はっきりとこの身があることにおいて、はっきりとこの見が無いことを知り、はっきりと見聞きがあることにおいて、はっきりと見聞きがないことを知る、これが、本当の探究のしるしなのである。どうして簡単なことであろうか、と。