至道無難禅師行録(3)

師は、皆に示して言った。わずかでも人に与える仏法があるのであれば、全くの誤りである。これを習い学ぼうとする者に至っては言うまでもないことだ。世の人は、なぜ末法となるのかを知らない。釈迦如来の大いなる仏法は、二千年余りを経て我が国に伝わって来た。今、千年経過して、ことごとく荒廃した。よくよくその元を見れば、荒廃の起こるのは、みな我智(がち、自分中心の知)から出るのである。およそ知のある者は信じる心が少ない。そもそも道の元は信じる心である。信じる心が衰えるのは知によるのである。それゆえ利益を求める知から欺瞞が次第に大きくなって、一切の教えがことごとく荒廃するに至るのである。これを末法のきざしと言うのである。本当によく知らなければならない。大道は、努めて、努めない所に到達した者は力が強いのである。今どきの修行者は、多くは師の教えを自分の知識としていて、信じる心をもって自ら努めてその道を得る者はまれなのである、と。

 

師は、皆に示して言った。おおよそ、道を養い身を修めるのに、勇猛にするかそうでないかの違いがある。私はかつて猛烈な骨折りを長い間行った。ある日、聖人孔子の言葉を見ていると、「天下国家をも平定することはできる。高い身分や報酬を辞退することもできる。光る剣を渡ることもできる。しかし中庸をよく行うことは難しいのである」と。この言葉は本当である。道を学ぶ者が勇猛に精神を奮い立たせ、痛く骨身に達するまで行わなければ、どうして身の内の業を滅ぼし尽くすことができるだろうか。私の師匠であった愚堂禅師は、かつて湯浴みのとき、しばしば仕えている女に全身を洗わせて、さっぱりとして落ち着いており、普段と変わらなかった。これこそ本当にそのような身の業を消し尽くした働きができるということでなくて何であろうか。

 

師は、皆に示して言った。私はまだ家にいるとき、かつて愚堂先師にお会いした。先師は私に本来無一物の語を示された。私は深くこれを信仰した。探究すること三十年。常日頃何をするにも本当に勇猛に一つに成り切る工夫をし、身体が抜け落ち、真の無一物に成り得て、そうして後にしばしば先師の厳しい鍛錬を受け、祖師方の奥深い境地を究明した。今、あなた方のために、心に刺さった釘をぬき、くさびを抜く。どうしてこれは些細なことであろうか、と。

 

師は、皆に示して言った。火に近づくときは熱く、水に近づくときは冷ややかである。そして仏道を得た人に近づくときは、自然に人の心は死んで、意欲は消え、いろいろな悪念が無くなるものである。これを全徳の霊効(まったき徳の霊妙な効用)と言う。あなた方はほんの少し門に入って来れば、もう道人と称している。実に恥じるべきことである、と。

 

師は、ある日、弟子たちを戒めて言った。およそ私の法を継ぐ児孫である者は、実直に慎み恐れ、時代の廃れた風潮にならってはいけない。昔の人が、言葉を書きとどめ、書を残すのは、遠く将来の人に役立てるためである。ところが恥知らずのやからが、ぞろぞろと連なって一生の利益としてしまい、その身が死んでもその心が死なず、頭を変え顔を変えて、どれほど転変するかわからない。本当に憐れむべきことである。身分が高いときには、おごりを極め、他人を馬鹿にして、身分が低く貧しいときには人にへつらい、財産をむさぼる。それだから仏陀や祖師方は、大いなる方便を用いられ、心の源を指示して教え、言葉を書きとどめて、この上なく妙なる道をあなた方の身の内に移しおかれたのである。このような重大事を、信じて理解しようともせず、あるいは言葉の調子のいいのを取り上げたり、あるいは事の次第の面白いのをもてあそんだりして、これを自分の心にもとづけて、これを自分の身に引き受ける者は、実に一人もいないくらいなのである。あなたたちが、もしこのような事をよく信じて、まず仏法の根源を究め、じかに今日から、未来永劫にむけて、大法をにない、天地と等しく、努めてこの道を実践して、虚空が尽きることがあっても自分の願心がきわまりなければ、それこそ私の門下の真の児孫と言えるだろう、と。