至道無難禅師「無難禅師道歌集」(1)

*〔底本:公田連太郎(編)『至道無難禅師集」春秋社、昭和31年〕

*〔 〕はブログ主による補足。 [ ]は底本編集者による補足を表す。*はブログ主による注釈。原文はひらがなが多く、以下はあくまでもブログ主の解釈です。

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 禅宗の師家(しけ)*は、人々への教示や法語、あるいは普段の説法や詩句を作るなど臨機応変である。至道無難禅師は、常日頃、禅を学ぼうとする人に教示するのに、深淵な道理をことわざにして和(やわ)らげ、和歌で述べて、愚かな大衆に対応した。このことは即心記、自性記の二つに詳しく示されている。今ここに信者があって、書き抜いて小さな本とし、帰依(きえ)**する人々が学ぶ手助けにしたいと、師の道場である禅河山***の宝庫におさめられていた草稿一巻を願い求めて、少しも取捨増減せずに出版しようとした。幸いに出版の費用を助ける人があった。至道菴主はついに彫師に渡して世間に流布させたのである。思うに人は肉体への執着を根本としていて、心の病を発し、朝に嫌い、夕に嘆き、心中が穏やかでない。癒しがたい悩みを苦しんでいる者が多い。ああ、禅師の高い徳を仰ぐべきである。その言葉は俗語であるけれども、わずかに三十一文字をもって意識の執着を取り除き、心の病の悩みを癒す良薬である。ただただ一首の和歌であっても、信心をもってこれを見る人があれば、その功徳は自然に表れて、正しい心が確固としたものとなるだろう。ひたすら心服すべきである。

  天保十五年甲辰(1844年)九月(旧暦九月)

                          如是観在ここに書く 印 印

*師家:道場で修行僧を指導する師である僧を言う。

**帰依:信じてゆだねること。

***禅河山:禅河山東北寺(ぜんがさんとうぼくじ)のこと。無難禅師の東北菴が元となり寺院になったもの。

 

   無難禅師道家集〔便宜のため、番号を付けた。全部で百十七首。〕

 

一、   仏道の大道を問う人に

  思わねば思わぬ物もなかりけり

  思えば思う物となりぬる

 (思わなければ思わないものも無いのである

  思えばその思う物となることだ)

 

二、   知恵才覚を好む人に

  才覚と知恵にて渡る世なりせば

  盗人(ぬすびと)は世の長者なるべし

 (才覚と知恵で渡る世間であったならば

  泥棒は世の中の長者(「ちょうじゃ)*であろうよ)

*長者:富裕で、指導的地位にいる人。

 

三、   大道の根本を

  言う事も為す事もなき心こそ

  一切経の極意なりけれ

 (ものを言う事も何かを行うことも無い心こそ

  すべてのお経の極意であることだ)

 

四、   儒教の人に

  天命も性もなければおのずから

  道に至らぬことはなきなり

 (天命も本性もなければ自然と

  真実の道に到達しないことはないのである)

 

五、   一休禅師の髑髏(どくろ)を引く絵の上に

  引くものも引かるるものもしらこうべ

  しばし浮き世の皮をかぶれり

 (引きづっている者も引かれている者も髑髏である

  ほんの一時のあいだこの浮き世の皮をかぶっているだけだ)

 

六、   道を問う

  主(ぬし)ありて見聞覚知する人は

  生き畜生とこれを言うなり

 (見たり聞いたり気づいたりする主(ぬし)があってそうする人は

  これを生きた畜生と言うのである)

 

七、   同じく

  主(ぬし)なくて見聞覚知する人は

  生き仏とはこれを言うなり

 (見たり聞いたり気づいたりする主(ぬし)がなくてそうする人は

  これを生き仏と言うのである)

 

八、   身も心も無いとき仏である

  さかさまに横すじかいに問うときは

  我が物ならぬ我が物もなし

 (さかさまに尋ねたり、側面から尋ねたりして探究すれば

  自分のものが本当に自分のものとなる)

 

九、   神よ仏よといろいろ聞いた人に

  名に迷う浮世の中の大たわけ

  我が名も知らぬ者となれかし

 (名前に迷っているこのはかない世の中の大馬鹿者よ

  自分の名さえ知らない者となれよ)

 

十、   神道を問う

  いさぎよき身をも心も捨てぬべし

  本来空を神というなり

 (いさぎよい自分の身も心も捨ててしまえ

  本来の空を神と言うのである)

 

十一、  修行に力がついてきた人に

  身の破れ果てたる時の心こそ

  じきに万法一如(まんぽういちにょ)なりけれ

 (身が破れ果てたときの心こそ

  そのままあらゆる事柄が一体となった所であるよ)

 

十二、  修行に出かける人に

  身のとがをおのが心に知られては

  罪の報いをいかが逃れん

 (自分の身の過ちを自分の心に知られては

  罪の報いをどのように逃れることができようか)

 

十三、  悟ることはできないと言った人に

  悟らねば仏の縁は切るるなり

  一切経を読み尽くすとも

 (悟らなければ仏の縁は切れるのである

  すべてのお経を読み尽くしたとしても)

 

十四、  祈って命が延びるかと尋ねた人に

  いろいろに浮き世の品(しな)は変われども

  死ぬる一つは変わらざりけり

 (いろいろと世間のことに違いはあっても

  死ぬと言うこと一つは変わらないのである)

 

十五、  念仏修行をする人に

  唱えねば仏も我もなかりけり

  それこそそれよ南無阿弥陀仏

 (唱えなければ仏も自分もないことだ

  それこそ南無阿弥陀仏そのものよ)