塩山仮名法語(4)

神龍寺の尼長老に与えた教え

三十一、仏に成りたいという望みのある人は、仏になるはずのその主(ぬし)を知らねばならない。この主を知りたいと思うなら、たった今の一念について参究しなさい。あらゆる善悪を思い、色を見、声を聞くものはいったい何かと、みずから深く疑えば、必ず悟るのである。悟ればそのまま仏である。仏の悟る悟りは、一切の衆生の一心である。この心の本体は清らかであって、あらゆる境遇に染まることがない。女の身にあるときも、女の身ではない。男の身にあるときも、男の姿でない。低い身分の身の上にあっても身分が低いわけでもない。高い位の身の上にあっても位が高いわけではない。譬えて言えば、虚空にはいろいろと変わる色がないようなものである。天地は破壊されることがあるといっても、虚空はただ色だけがあってまったく形はない。十方世界の中、すべて虚空であって行き届かないということがない。一心もまたこのようなものである。

 

三十二、肉体が生じる時も、一心が生じるということはない。この身が死ぬ時も、一心は死ぬことがない。また、姿が見えるはずはないといっても、全身に満ち満ちており、目に色を見るのでも、耳に声を聞くのでも、鼻に香りをかぐのでも、口にものを言うのでも、手足を動かすのでも、一心のはたらきでないということはない。この心を離れて外に向かって仏を求め、仏法を求めるのを迷いの衆生と名付けるのである。この身は仏であると悟る人を仏と名付けるのである。それゆえに、自分の心を悟らずに仏になった衆生はいないのである。

 

三十三、この心は、六道*の衆生の各々に備わっており、ひとりも漏れることはない。やはり虚空があらゆる場所に満ち満ちているようなものである。分け隔てはまったくない。仏に差別はないというのは、このことである。

*六道:命あるものが生まれ変わるという六つの道。地獄・餓鬼・畜生(動物)・修羅・人間・天上。

 

三十四、さまざまな仏は、この一心を悟って衆生に教え示すのだが、衆生は理解する力が弱く、姿あるものに捉われて、この無為(むい:不生不滅)の法身(ほっしん:仏の本体)である、清らかな真の仏を信じることができないので、譬えを用いて教えるときに、如意宝珠(にょいほうじゅ:思うままにあらゆる宝をそこから出す玉)と名付け、ある時は大道(だいどう:大いなる仏の道)と名付け、ある時は阿弥陀と名付け、ある時は大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ:法華経に出る仏の名)、あるいは地蔵菩薩と名付け、あるいは観音菩薩と名付け、あるいは普賢菩薩と名付け、あるいは父母未生以前本来面目(ぶもみしょういぜんほんらいのめんもく)*と言う。

*父母未生以前本来面目:父も母も生まれる前の、その人の本来の姿。中国六祖慧能禅師の言葉に由来。

 

三十五、六道の衆生にとって、六根(ろっこん)*の主体であるので、地蔵は六道の能化(のうけ:教え導く者)だと言うのである。すべての仏や菩薩の名前は、一心の別名である。みずから自分の心の仏を信じるなら、すべての仏を信じることになるのである。それゆえ経(華厳経)にあるように、三界(欲界・色界・無色界)はただ心だけであり、心のほかに別に仏法はなく、心・仏・衆生の三つに違いはないのである、と。

*六根:眼・耳・鼻・舌・身・意(げんにびぜつしんい)という人間に備わる五感と意識、人間の認識の根幹。

 

三十六、また一切のお経はみな、衆生の身の上を指し示した言葉であるから、みずから一心を見届けた人は、一切経を一時に読んだのと同じである。それだから、円覚経にあるように、経典の教え*は、月を指すゆびのようなものなのである。経典の教えとは一切経のことである。月を指すというのは、衆生の一心を指すことを言ったものである。一心で心の内外を照らして明らかにするのを、月が世界を照らすと言ったのである。それゆえに、お経を読めば莫大な功徳があるというのも、ただこのような事情を知らせようとするためなのである。

*経典の教え:「修多羅(しゅたら)の教(きょう)」修多羅はインド語のスートラの中国語への音写(音だけ写すこと)でお経のこと。

 

三十七、また、仏に供養をすれば成仏するというのも、心を悟ることを言うのである。仏の名前をとなえ、お経を教わって読むのも、ただ悟りの岸に近づくための舟や筏のようなものである。

 

三十八、舟や筏にのって川を越えて岸に近づいたあとは、舟や筏を離れて道をいそがねばならない。それだから、千日も万日もお経を読んでいるのよりも、一念のうちに一心を見届ける功徳は、限りなくまさっているのである。また、千年、万年もこの道理を聞くよりも、一念のうちに一心を見届けるならば、限りなくまさっているのである。

 

三十九、ただし、浅いところから深いところへ進むので、どうしようもなく愚かで戒律を守れない者が、ひたすらにお経を読み、仏の名前を唱えるのは、初めて舟や筏にのろうとする者のようなものである。ありがたいご縁結びである。しかしもしだだ筏の中にとどまって、悟りの岸に近づこうと思わないのであれば、これは大変な間違いである。