二十二 心がおこるのをどうすべきかという事
尋ねて言った。何の心もないように妄念をはらうといっても、見ること聞くことがないわけにはいかないので、その縁に従って心がさまざまに起こるのをどのようにすればよいでしょうか。答えて言う。心に浮かぶことを除き払って、何の念もないようにと油断のないようにしていれば、自然とお悟りになるでしょう。道心が薄いので心にかけないというのであれば、申し上げることもありません。たとえ目に物を見るときも、心は見る物に執着せず、耳に声を聞くときも聞くことに執着せず、鼻に香りをかいでも香りに執着せず、舌で味わっても味に執着せず、心にさまざまな念があるといえども二念をつがず(それに捉われて次の念を起こさない)、念が起こってもその念にかまわず心を動かさず、自分の心はもとより主(ぬし)のない法界(世界全体)であって、仏であると信じるのが肝心でございます。
二十三 私の勝手な言葉ではなくすべて経文である事
尋ねて言った。このようにさまざまにお聞かせいただくことは、仏の教えの通りなのでしょうか。あるいはご自身の言葉を添えられているのでしょうか。仏になるには難行苦行をし、功徳を積み重ねてこそ仏になることができるというのに、簡単に何の心も起こさず、わが身が仏であり、心のほかに仏はないなどとばかりおっしゃるのは疑問に思われるのです。確かに経文にあるのでしょうか。答えて言う。何の心もないということは、簡単なようみ見えて、難しいのです。また難しいようでいて、簡単でもあり、ただ道心が深いか浅いかと、信心があるかないかとの違いなのです。疑わずに信心すれば、簡単に仏となり、信じなければ六道を巡って長く苦しみに沈むことになります。六道の中では人間に生まれることは稀なので、今回、むなしく過ごしてしまえば、後悔しても甲斐のないことになります。龍女は八歳の子どもで、畜生です。女ですから五障(1)がある身でありながら、たちまち仏となり、(舎利弗が)その志に疑問を呈して、難行苦行してこそ仏となるのにと言いましたが、真如一理(真実そのものがただ一つの真理)とは、自分の心が仏であり世界全体であることです。龍女がただ一つの真理を聞いて仏となったことを疑った人は、龍女にきっちり応答されて黙ってそれを信じたということが、法華経の提婆品(だいばぼん)に説かれています。女人も悪人も隔てはなく、ただ一心の法界(世界)は同じです。法華経は、仏の御心の通りで偽りはありません。疑う者は無間地獄(最悪の地獄)に落ちることになります。この一心ということに納得がいかないのであれば、八万四千と言われる経文をすらすら言うことができる人でも、無駄ごとでございます。一字一文をも知らず、汚れた場所に居たとしても、無念無想であるのなら、そのまま仏でございます。経文を教えようというので釈尊は多くの仏法をお説きになったのではありません。ただ、衆生が、自分ではないものを自分だと思って深く執着し、本当ではない心を本当の心と思い、生まれて死なない心を本当の心だと思ったり、生まれないのを生まれたり死んだりすると見たり、妄想が多いので、自分の身にもとよりもっている仏を知らず、地獄・餓鬼・畜生の道に落ちるのを悲しまれて、妄想を払って本当の心にさせ、どのような心をも起こさせないためであります。真実のありさまで心を知るなら、学問はいらないことです。難行苦行は何のためにするのでしょうか。女の身で学問もせず、才覚もないと悲しんではいけません。また肝心な所(2)はもう理解したと慢心する心が少しでもあるのもいけません。何度も申し上げるように、少しでもものに気を配って捉われる心で、心を動かし念を起こせば、仏の心にそむくことになります。このように申し上げるのは、すべて確かなことであり、お経や祖師の論述の文にあるものなのです。私的な言葉かとお疑いであるなら、本のようにお経や論述の文を書いて差し上げましょう。いかにも聞きやすく理解しやすいように仮名に書いているのでございます。ゆめゆめ軽んじてお疑いになってはいけません。寝ても覚めても、自分の振る舞いが妙なる仏法であると信じて、このほかにまたどのような有難く尊い教えがあるだろうかと求める心もなく、繰り返しますが、何の心も起こさず、何の念も作らず、あらゆることに執着して留まるところがないならば、その心がそのまま仏であって、現世で安穏であり後生も善い所に生まれるはずなのです。毎朝の読経のたびごとに、きっと心してご覧になって、この心をお悟りになっていただきたいのです。
二十三問答終わり。
(1)五障(ごしょう):法華経にでる女人がもつとされた五つの障害。女性は梵天王、帝釈天、魔王、転輪聖王、仏陀の五つになれないとするものだが、釈迦の説いたものではなく後世の説とされる。
(2)肝心な所:底本では「りんよう」となっているが意味が通じないので、「り」を「か」の変体仮名の誤読とみて「かんよう(肝要)」と読む。