月庵禅師仮名法語(一)

*月庵禅師(げつあんぜんじ:1326-1389)=臨済宗、月庵宗光(げつあんそうこう)禅師の仮名法語。底本:『禅門法語集 上巻 復刻版」ペリカン社、平成8年補訂版発行〕

*〔 〕底本編者による補足、[ ]はブログ主による補足を表す。

( )付数字はブログ主による注釈。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

〇  宗如禅尼に示す

 

 大道(だいどう:仏法の大いなる道)は廓然(かくねん:からりと広い)として、もとより示すべきこともなく、また明らかにすべきこともない。ただ人が一念を起こして自ら迷い、種々の業(ごう:善悪の行いにより輪廻の元となるもの)を造り、六道(ろくどう(1))に浮き沈みする。それゆえ仏や祖師方が世に出てこれを救われるのである。衆生(生きるものすべて)の素質はまちまちであるから、教えは確かに変わるとは言っても、肝要な点はただ直指(じきし:直接指し示すこと)だけであり、それ以上他に道理はない。素質が優れ高い知恵を供えた人は、瞬時に仏や祖師の位を超越し、一切の物事に関わらない。素質がすぐれない者は、聞いても信じず、見ても尊ばず、ただ目前の営みばかりで後世(ごせ:死んだ後の世)のことを知らない。たまたま善知識(ぜんちしき:優れた先導者、僧侶)の勧めによっていくらかは生死を恐れる心が生まれたとしても、また有相(うそう)の行(2)に捉われて無上道(むじょうどう)(3)に向かわず、たとえ坐禅して真理を探究する人も、あるいは妄念や妄境(もうきょう:妄念から生じる世間の物事)を嫌い、あるいは無心とか無念ということに捉われたり有無にはかかわらないと思い、また自分は様々な見解をすでに離れていると思って真実の心を起こさず、むなしく歳月を送るのである。急に死の場面に直面して、初めて恐怖の心を起こして千万回も後悔してもどうしようもない。昔の人はこれを、喉が渇いてから井戸を掘ることに譬えたのである。そもそも人間の身を受けることは難しく、しかも仏法に出会うことも難しい。どうか、どうか、仏法を求める大いなる願いの力を発揮して、三宝(さんぽう:仏、法=教え、僧の三つの宝)にも深く誓いの祈りを捧げ、自らの行いを強く恥じ、今の世で早く真理を明らかにすべきである。来世を期待してはならない。あなたがもしこの道理を信じて、大事(真理を悟ること)を成し遂げようと思うならば、何とも知らない所(無心でいるところ)にしっかりと目をつけて、知らない所にもとどまらず、また知る所にも向かわず、直接見て、直ちに究めなさい。まったく跡形もなく、心もなく心も及ばないと思って、引きさがってはならない。教外(きょうげ:教えの外)に悟りがあることを信じて、行住坐臥(歩いても止まっても、座っていても寝ていても)少しの間も放っておくことなく、しっかりと志を進めて、よくよく用心すれば、必ず女性の身を変えることなくして、そのままで解脱(げだつ:輪廻を離れること)して、生々世々(しょうじょうせぜ:うまれかわってもいつまでも、未来永劫)大安楽である。疑ってはならない。また一つの偈(げ:詩)を作って示そう。

 

 汝求直指(あなたが直接真理を示すことを求めるので)

 曲説如是(このようにあえて説くのです)

 只要門開(ただ肝心なのは実際に門を開くこと)

 莫認瓦子(門を叩くのに必要な石=教えの言葉、に捉われてはなりません)

 

(1)六道:輪廻でおもむくべき地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つの世界。

(2)有相の行:現実の善悪の諸相を認めて善行を積もうとする修行。

(3)無上道:それ以上はない至高の道。無相を悟ること。