夢窓国師二十三問答(七)

二十一 心のないのを仏とする事

 

 尋ねて言った。心のないのを仏の心とし、念が起こらないのを御法(みのり、仏法)であると承りましたが、妙法(言葉で言い表せない優れた真理)は心と念の事だというのはどういうことでしょうか。答えて言った。どのような心もなく、どのような体もうけないその前は、大空のようなものです。仏が仮に父母の縁によって、陰陽が打ち解けあって様々な姿かたちをうけたものが、その胸のうちにあるかと思えば、色や形はなく、無いかと思えば、思いはかる心が起こります。有りとも無しとも思いはかられるその心を知らせたいがために、その名を妙(みょう)とお付けになったのです。その心は、仏の胸のうちにあっても貴(たっと)いことはなく、衆生の胸のうちにあっても卑しいことはなく、去ることも来ることもなく、煩悩にも汚れず、濁りにも染まらず、蓮華の花が濁った水の中にありながら、濁りに染まらないのに似ています。虚空である心から、憎んだり愛おしく思ったり、白だ黒だと分別する心も起こります。その迷いの念は氷のようなもので、念のない根本の心は水のようなもの。迷いの氷が溶けてしまえば、もとの水でございます。返す返すも、一心のほかに別の法(真理)はないのです。念を法(真理)だと言いましても、心のほかではありません、心も念のほかではありません、心一つが法界(世界全体)に行き渡り、また世界全体が心の一つに帰るのです。因果も二つあるのではありません。ただ世界全体も一つの心であって、一つの心も世界全体であると確かにお悟りなさい。鏡にむかう時、姿かたちが映るのは、姿かたちが行って鏡の中に入るわけでもなく、鏡が見る人の方に来て映るわけでもありません。ただ自然と互いに映り、映すことになる道理なのです。また月が水に映るのも、月が下りてきて映らなくてはと思う心があるわけでもなく、水が空に昇って月を映そうとも思わず、自然にそうなるように、心が世界全体に行って世界全体になるのでもなく、また世界全体が心の中に来て、世界全体が心にあるのでもありません。自然とお互いに同じものなのであり、あらゆるものが各々異なると思ってはなりません。地獄も浄土も鬼も神も、心を離れてはありません。目に見て、耳に聞くことが真実だと思っているので、繰り返しになりますが、また譬えを使って申しましょう。根本の火(1)というものは、世界全体に行き渡っていて、心のように色も形も見えず、物を焼くこともなく、熱くもなく、石の中にあっても姿を消すことはなく、水の中にあっても消えることはありません。そのようでありながら、縁にあって木の中から燃え出し、石の中から打ち出した火[火打石のこと]は、仮の火であるがゆえに、縁がなくては燃えることもなく、薪や油の縁が尽きてしまえば消え失せてしまうのです。ただ仮の火だけを真実と思い、真実の火は目に見えることがないので、知る人はまれなのです。ちょうどそのように、仮の姿である生き死にを目に見えるままのように思い、生き死にのない根本の心は、目には見えず、色も形もないので、知る人はまれなのです。生き死にもなく、何の念もない虚空のようだと申しております。心は根本の火のようなもので、念々起こってくる愛しさや憎しみ、生き死にのあるこことは、縁によって仮に現れた火のようなもので、仮に現れる火は根本の火から出ているものですので、心もそのように、真実の心から出ているもので、仮に念も生じてくるのです。衆生が四つのもの[土・水・風・火の四大=四元素]が合わさって身となっていると以前申し上げたように、土・水・風も火と同様で、根本の土水火風は、目に見えず、色も音もないのでございます。仮に姿を現しているだけです。土水火風でありますから、縁がつきてしまえば無くなってしまいますが、真実の心は無くなることはありません。目に見えないものは、そのままあるとも無くなるとも知られないものです。悪業煩悩の念は起こるといっても、それはただ真実ではなく、仮のものであると信じてその主人にならず、痕跡なく世界全体と等しい心をもつべきなのです。

 

(1)根本の火:古代中国で世界の四元素(四大=地水火風)のうちの一つの火のことをさす。以下、この元素としての火を譬えとして一心について説く。