夢窓国師二十三問答(三)

七 仏が人と異なるという事

 

 尋ねて言う。仏は姿かたちも人より優れ、美しく、光を放ち、心も衆生とは違っておられると承知しておりますのに、私どものような者と同じとは、まったく納得しがたいことでございます。どのように理解すればよろしいのでしょうか。答えて言う。仏といって姿かたち美しく、光を放たれるのも、夢の中で花を飾っているようなものです。その仮の仏さえ、今は目に見ることはできず、ただ木で像に造ったり絵に描くばかりです。絵に描き、木で造ったものも、根本の仏を離れることはありません。漏れることなく法界(全世界)にあまねく行き渡る私たちの心、これがすなわち根本まことの仏であって、犬、鳥、虫までみな仏と一つです。色や形があるのをまことの仏と思ってはなりません。

 

八 仏が虫けらとなる事

 

 尋ねて言う。どういうわけで、虫けらにおなりになるのでしょうか。答えて言う。仏と衆生と根本は一つであることをいまだ納得できない人は、そのように疑問に思うでしょう。虫けらとなったからといって、仏の本性が失われることはなく、仏だからといって、虫けらの心を離れているわけでもない。地獄の炎に焦がされる者も仏の心があり、また仏の心も私たち衆生を離れない。譬えるなら、月は仏のようです。曇りは衆生のようです。曇ったとしても根本の月が暗いということはありません。また仏は鏡のようです。衆生はそこに映る姿みたいなもの。鏡に姿が映っても、根本の鏡は物を嫌うことはありません。それで火が映っても鏡は焼けず、水が映っても鏡は濡れません。あるいはまた、仏は水のようです。衆生は波みたいなもの。波が立っても水は元の水と変わりません。また心は真実の仏です。念が起こるのは衆生です。念がなければ心はそのまま仏です。曇りがなければ月は明るいままです。面と向かうものがなければ鏡に映る姿はありません。波がなければ水は元の水であるようなものです。念がなければ衆生はただ仏であるはずなのに、妄念がさまざまあるがゆえに、さまざまな卑しい姿かたちとなるのです。

 

九 妄念によるという事

 

 尋ねて言う。妄念によって仏が虫けらにおなりになるとのことですが、おっしゃったのではないでしょうか。仏には妄念などない、ということではないですか。答えて言う。根本には、仏とも衆生とも言うべき名前もありません。根本において仏が別にいらっしゃって、その仏の心に妄念が出てきて衆生になるというのではないのです。ただ、主(ぬし、主体)のない法界に妄念が起こって衆生となり、念がなくてそのまま法界であれば仏と名付けているのです。ですから始めも終わりもありません。すべての物は一体だと知るべきです。人が夢の中で虫になったとしても、見る人も虫ではなく、ただもとの名前です。火に入り、水に入っても、夢であれば本当に火に焼かれることもなく水にも沈みません。それと同じで虫けらと見る夢のようなものです。衆生はことごとく仏なのですが、一念の妄念によって迷い出て、いろいろな卑しい姿かたちを得るのだということ、ただ夢まぼろしの如くであって、根本が衆生となったというわけではありません。ですから、衆生を離れて仏がおられるというわけではなく、人が夢でいろいろな物になってもその人を離れて別の者が見たのではないようなものです。うごめいている虫までも卑しいことはありません。仏と離れた衆生があるはずはありません。ひとたび妄念があることによって、業因(ごういん)(1)を添え、過去の業によってこの世にまた報いがあり、さまざまの姿かたちを受け、六道(ろくどう)(2)を巡ることが止まず、悲しいことではありませんか。

 

(1)業因:善悪の行為が未来の結果につながる、その原因としての行為のこと。

(2)六道:輪廻転生する六つの道。地獄道(じごく)・餓鬼道(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(阿修羅)(しゅら)・人道(人間)・天道。

 

十 現在の結果を見て過去未来を知るという事

 

 尋ねて言う。現在の結果を見て過去未来を知るというのは、どのようなことでしょうか。答えて言う。過去とは過ぎた世、現在とは今の世、未来とは後の世(来世)のことです。この世に命長く、人に用いられて、あらゆることに恵まれた果報は、過ぎた世にものの命を殺さず、他人を恨んだり軽んじたりせず、物を施し、柔和であった因縁なのです。譬えるなら春に良い種をこしらえて、よく育つように土を掘り、種を蒔くという因縁があれば、秋にはその実が立派にできるようなものです。春は過去、秋は現在のようなもの。またこの世でつまらない妄念があり、執着が長く、信心もなく、ただこの世の事にのみ心を砕いて、後の世のことを思わなければ、地獄、餓鬼、畜生道に落ちるのです。譬えるなら春は適当に種を植えて、秋には収穫が乏しいようなもの。この世であらゆることが心にかなわず、貧しくいやしく、病だけがあるのは、先の世の報いだと信じて、次の年の種をこしらえ、よく土をこしらえて種を植えれば、必ず秋は良いようなものです。現在、嘆かわしい人であっても、未来の事をよく覚悟して準備する人は、必ず未来は良いはずです。現在、すばらしい人でも、未来の覚悟がなければ、未来は悪い報いになるので、過去も知られ未来も知ることができるわけです。この世で貧しく悲しい人は、いっそう未来の事を思って、現在が思うにまかせないことは、これから後、長く世の楽しみをなすきっかけだと知って、嘆いてはなりません。また今の世で思うままである人であれば、前の世の戒力(かいりき)(3)で今このようであるからといって、長生きして死ぬということでもなく、百年の寿命を保つこともありません。ただ夢のようなものだと思って、楽しみにおごることなく、執着の思いなく、未来の覚悟をすべきです。このように理解して、過去の心も自分のものとすることはできず、現在の心を自分のものとすることはできず、未来の心をも自分のものとすることはできないのです(4)。

 

(3)戒力:戒律を守ったことによって得た力。

(4)過去の心も・・・:この一文は、『金剛般若経』の「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」を踏まえたものであろう。