夢窓国師二十三問答(四)

十一 善根(ぜんこん)(1)に有漏(うろ)無漏(むろ)(2)の違いがあること

 

 尋ねて言う。善を行うには有漏の善、無漏の善といって、行う人の心によって、優劣の違いがあるというのは、どのようなことでしょうか。答えて言う。他人が大変栄えているのを羨んだり、あるいは死んで後の世でも人に生まれれば、国や所領を多く持ち、そうでなければ浄土に生まれて楽しみを極めたいといって、お経を読み、仏を拝み、寺を造りお堂を建て、布施を行い、供養をするのを、有漏の善と言うのです。それによって仏道と結ばれる縁は朽ち果てることはないでしょうが、これはよろしくないものです。一ふさの花を捧げ、一本のお香を焚くのでも、自分の心の世界がそのまま仏であることを知らせ、仏道との縁を結びたいものだと願って行うのを、無漏の善といって尊い善根というのです。

 

(1)善根:よい結果を生み出す原因としてのよい行い。

(2)有漏無漏:有漏は煩悩のある状態、無漏はない状態。

 

十二 浄土を願うこと

 

 尋ねて言う。この世のことを期待して行う善は、ご利益(りやく)も浅いでしょうが、浄土を願い、後の世の楽しみを思いますのも、よろしくないというのは、どのようなことでしょうか。答えて言う。仏道の種は、縁によって生じるものですから、有漏の善だからといって、まったく嫌ってうち捨てるべきではありません。絵に描き、木で造った仏を見、仏法の一つの言葉や一つの詩を聞く事で、その縁はすたることなく、ご利益が多く実を結び、心にひとたび思うことでその報いがないということはありません。この世のうちに報われることもあり、後の世で報われることもあり、善いことを行ったことも悪いことを行ったことも、因果を遁れることはできません。それゆえ、罪を恐れ、善根をなすべきなのです。そのうち有漏の善を行えば、その報いはあるといっても、その力には限りがあり、後には輪廻に帰ってしまうことは、譬えるなら、空に射た矢が力の分だけ上がっても、ついには落ちてしまうようなものです。無漏の善は、広く世界全体に行き渡り、譬えるなら虚空が際限のないようなものです。浄土に生まれたいと願うことは、この世に執着が深くて後の世を知らないのにはまさるといっても、本当の浄土は心のうちにあるのです。けっして心の外には求めることができないものであって、何の念も起こさず、あらゆることを見ず聞かず、在りとも無しとも思わず、自分の身の主(ぬし、主体)がなく、虚空にひとしく、何の跡もなく、留まるところもないように居られる人の到るところが、そのまま浄土でございます。この世界を離れて別に浄土はありません。このようにお知りになれば、願うべき浄土もなく、嫌うべき娑婆世界もなく、ただ万法一心(まんぽういっしん、すべての物ごとがこの心)でございます。一心がそのまますべての物ごとであって、仏も浄土も心の外に別にはありません。真実ではない心を取り除かれずに、真実だと思い詰めているのを、衆生の迷いとし、心を取り除いて真実の心を知ることを仏の悟りと申すのです。釈迦如来五十年の間お説きになった仏法は数多いといえども、ただ心ということに収まるのです。何事も求めて執着せず、善しあし共に主(ぬし)となさることが肝要でございます。

 

十三 懺悔によって罪が滅びる事

 

 尋ねて言う。懺悔をすることで罪が滅びるとはどのようなことでしょうか。答えて言う。懺悔には二種類あります。一つには、ひとは毎日、十悪というものをつくっています。その十悪というのは、いろいろと命あるものを殺し、物を盗み、男は女を思い、女は男を思います。これらは身に三つの過ちがあるということです。ありもしないことを言い、関われないようなことを言い、戯れて人を悪く言い、中言(なかごと)(1)を言う。これは口に四つの過ちがあるのです。うまれついた身分に従って満足に思うべきことであるのを、飽き足りることなく欲深く、怒り腹立ち、知恵なく愚かであること、これは心に三つの過ちがあるのです(2)。

 

(1)中言:争っている二人の間に入り、一方の人に向かって他方の人を同じように悪く言うこと。

(2)身と口と心は身口意(しんくい)と言われ、それぞれ三、四、三の過ちがあって十悪となる。

 

また身のうちに六つの盗賊があります。とういうのも、眼耳鼻舌心意(げんにびぜつしんい)(3)のことです。目に見える物、耳に聞こえる物、鼻にかがれる物、舌で味わわれる物、身に触れる物、心に思う物、この六つを加えれば十二の盗賊とも、鬼ともなるのです。この十二のものによって地獄、餓鬼、畜生に落ちます。外に鬼がいて、地獄に入るのではないのです。かのような罪とがを恐れて、身に礼拝し、花やお香を供えれば、身に三つの過ちはなくなります。お経を読み、仏の御名(みな)を唱えれば、口に四つの過ちはなくなります。信心深く、以前に作った罪とがを表に顕して後悔すれば、心に三つの過ちはなくなります。このようなことを懺悔と言うのです。

 

(3)眼耳鼻舌心意:六根(ろっこん)と言われ、外界の感覚を得る六つの根本。

 

二種類目の懺悔は、身とも口とも意とも分別して理解することなく、ただ心一つがなくなるなら、眼耳鼻舌心意の罪とがも、主体がなく、跡形もなく、流れる水のように、心が留まるところがない。何の念も起こさず、静寂なところで膝を組み、心を静め、少しも何かにすがりつくことなく、何事も思ってはならないとも思わず、身も心も大空とひとしくなれば、十悪も十二の拠り所も根本はないものでありますから、煩悩もそのまま菩提(ぼだい、悟りの知恵)となり、この懺悔を行う人は、パチンと指をはじく間に、過去の百万憶の行いの罪を除くので、作りおかれた過ちは、日光で朝露や霜が消えるようなものだと言われるのです。