塩山仮名法語(9)

八十一 初祖達磨大師が言う。一切は空であると言って因果を知らない人は、無間暗黒地獄(むげんあんこくじごく)*に落ちると。たとえ口で言うところが似ているといっても、情識**によっていることはどうしようもない。初心の求道者の多くは、仏法の本性が立ち現れたのをとどめて悟りだとする。昔の人[臨済禅師]は言っている。仏法本性の身[法身]とか土[阿弥陀の浄土]とかいうのは、これは明らかに幻影であることを知らねばならない。幻影を自在に左右している人を見て取りなさい。それが諸々の仏の本当の根源である。

*無間地獄:地獄の中でももっとも苦しみの多いもの。間断なく苦しみが続く。

**情識:誤った認識と感情。

 

八十二 ある人が言うには、修行を行うからいろいろな見解を抱くのである。見解は皆、心の病である。そうだとすれば、簡単に悟るということはあるはずがない。心を悟り、お経の真理を明らかにできなくとも、さまざまな罪さえ作らなければ、どんな過ちもないはずである。成仏できないといっても、三悪道*にさえ落ちなければ、必ずしも悟りを求めてどうということはない。

三悪道:輪廻するといわれる六つの道のうち、地獄、餓鬼、畜生の三つの道。

 

八十三 答えて言う。もろもろの罪の根本は、すなわち迷いの心情なのである。これは悟らなければ消滅しない。衆生の身のうちに六根*がある。それぞれに六賊(ろくぞく)**がある。六賊にそれぞれ三毒がある。いわゆる貪瞋痴(とんじんち)***である。一切の命あるものの類の中で、この三毒をもたないものはない。この三毒が原因となって、三悪道が結果となる。因果は必然である。

*六根:眼・耳・鼻・舌・身・意という感覚が生じる六つの根幹。

**六賊:賊は盗賊。感覚によって奪われ、法性を失うことから譬える。

***貪瞋痴:貪はむさぼりの心、瞋は怒りの心、痴は無知の心。あわせて三毒煩悩と呼ばれる。

 

八十四 私には罪はないと言う人は、この道理を知らないものである。たとえ特別に罪深い人生を送らなくても、元来備わっている三毒がある。ましてや、その上に多くの罪を作る人はなおさらである。

 

八十五 有相(姿のある)衆生がみな三毒煩悩を備えているとするなら、仏や祖師や聖人賢者であっても、誰か三悪道に落ちることを免れるだろうか。

 

八十六 答えて言う。ただ自性(じしょう、自分の本性)を悟るとき、三毒は戒定慧(戒律、禅定、知恵)という三つの徳に変るであろう。仏や祖師や聖人賢者はみな見性(自性を悟った)の人である。何の罪があろうか。

 

八十七 尋ねて言うのに、見性した人は三毒を転換して戒定慧とできるだろう。前に言っていた誤った見解を抱く心の病をどのように直せばよいのだろうか。

 

八十八 答えて言う。見性はあらゆる病気をなおすただ一つの薬である。他の治療方法を借りるには及ばない。

 

八十九 前に言ったではないか。幻影を自在に左右している人を見て取ること、これがもろもろの仏の根源であると。自己の仏性は金剛王宝剣(こんごうおうほうけん、あらゆるものを断ち切る宝剣)のように、触れるものは皆、その身を失う。大火事のようなもので、近づく者はみな命を落とす。

 

九十 もし一度見性すれば、長い時間積み重ねてきた間違った認識の積み重ねは一時に破れ、それまでの悪習慣の力が一瞬にして消滅することは、赤々と燃えている囲炉裏の上にひとひらの雪が降りかかったようなものである。仏とか仏法とかいった認識すらやはり存在しない。いったいどんな心の病が残るというのか。

 

九十一 ただ、一切の無知や業による妨げやさまざまな知的理解や解釈が除き去れないのは、本当に見性していないからである。自分の本性を悟らずに輪廻を免れようと思うのは、まだ燃やしている火を除かずにお湯が煮えるのを止めようとするようなものである。そのような道理があるわけはない。

 

九十二 あなたは幸いに教外別伝(きょうげべつでん、教えの外に別に伝える)の大事があることを信じておられる。このような文字や言葉を求めてどうするというのか。一切の理屈や意味をきっぱりと捨て去って、直接それを見なさい。たった今、見聞きしている主人公は、けっきょく何者であるのか。もしそれをこれまでに従って心と名付け、本性と名付け、仏と名付け、無と名付け、空と名付け、色(しき)と名付け、知と名付け、不知(ふち)と名付け、真と名付け、妄と名付け、言葉で呼び、あるいは黙し、悟りとしたり、迷いとしたりすれば、たちまち誤ってしまう。

 

九十三 またもしこれを疑い考えようと心を動かすなら、無縄自縛、ありもしない縄で自分を縛るようなものである。ただ、名付けがたく、言葉で言い難い所を、直接知ろうとしても知ることができない。言おうとしても言うことができずに、全身が疑いになりきって、疑いが心底まで通貫してみると、この身に心とも本性とも名付けるべきものが一つもないと言っても、声があればただちに聞き、名を呼べばただちに応える。そこでそのまま決着をつけよ。彼はいったい誰か。理解の道が閉ざされ、力が尽きてどうしようもできない所へ歩みを進めることは、大火の燃え盛る穴の中へ手を広げて走り入るようなものであり、進んで自分の本分である金剛(ダイヤモンド)のごとき炎の中へ入ることができれば、身も心も、知識も感情も、理解も解釈も、命の根源とともに滅却して、本来の根源的な自己の本性が立ち現れることは、死に果てた者が再び蘇るときに、もろもろの病が一時に断ち除かれて、安穏の喜びが得られるようなものである。自由自在のところがあるであろう。まさにこの時、知るがいい、水を踏むこと地のごとく、地を踏むこと水のごとく、一日中説法していまだかつて説法せず、一日中食べていまだかつて食べず、南山に雲が沸き起こって北山に雨が降り、中国で太鼓を打てば(説法のあることを知らせるもの)、朝鮮で上堂(説法するために法堂に登る)するということを。

 

九十四 あるいは四畳半の部屋に一人で座っていて、十方のもろもろの仏たちにお会いし、一字も読まずに七千余巻のお経を読み尽くし、一切の功徳のおさまる蔵、あらゆる修行とさまざまな善行が、ことごとく自分の胸の中に備わって、別に一つとして何かを用いるということもなく、また一つとして何かがあるということもない。

 

九十五 この時を知りたいと思うだろうか。龐居士(ほうこじ)は馬祖禅師に尋ねた。「万法と侶(とも)たらざるものこれ何人ぞ(いっさいの物事に寄り添わない者とはいったい何でしょうか)。」馬祖禅師が答えて言った。「汝一口(いっく)に西江水(せいごうすい)を吸尽せんを待って何時に向かって言わん(お前が一口に大河である西江の水を飲み干したら言おう)。」居士は聞くと同時に大悟した。あなたはどうやって一口に大河の水を飲み干すか。もしこの言葉を納得できたら、千句、万句も一時に理解し通せ、水を踏むこと地のごとく、地を踏むこと水のごとしということを知るだろう。

 

九十六 もし間違って神通力だの不思議な力だのとするなら、閻魔大王の前ので真っ赤に熱した鉄の玉を飲まされる日が来るだろう。もし神通力だとか不思議な力だとかしないのなら、どういう道理だと言えばよいか。しっかりと目を開いて見よ。