塩山仮名法語(10)

正法庵主が強いて望むのでこれを与える

 

九十七 少年の頃から一つの疑いが起こっていたのです。そもそもこの身を差配して、「誰であるか」と問えば「私だ」と答えるものは一体何ものかと、一念の疑いが起こり始めてから、歳を重ねるままに疑いが深くなっていって、出家しようと思い立ったとき、一つの大きな願力起こったのです。

 

九十八 どうせ出家するのだとすれば、自分一身のために道を求めることはすまい。諸仏の大法を悟って、一切の生きとし生けるものを救い尽くし、その後で正覚(正しい悟り)を成就しよう。また、もしこの疑いを明らかに晴らさないうちは、仏法を学ぶことはせず、また僧侶の家の礼儀を学ぶことはせず、人と交わるにしても、善知識(優れた師)のところであるか、あるいは山の中のほかには身を置かないことにしよう、と。

 

九十九 出家して後、さらに疑いが深くなるにしたがって、この願いも深く起こりましたがそれは、前の仏がすでに涅槃に入り、後の仏はいまだ世にお出にならない中間で、仏法が絶えようとする時において、仏のいない世界の衆生を救うために差支えがないほどの大きな道心を起こしたい、ということでありました。

 

 たとえこの衆生への愛着の念をもつ罪によって無間地獄(むげんじごく、絶え間なく苦しみが続く最悪の地獄)に落ちたとしても、衆生の苦しみに代わることさえできれば、少しも退くことなく、生まれ変わりを続けて未来の果に至るまでこの願いを失うまい。また修行において、生き死にいずれの考えにも拘らず、また小さな善を積むために僅かな時間を費やすまい。また、自分でまだその力が十分でないのに、人に恵みを与えようとして人の目をつぶしてしまうようなことがないようにしよう、と。

 

百一 この願いは、自分の心の習慣になって、参究のさまたげになりましたが、止めることはできずに、さまざまな仏に対しても常にこの願いを深く念じてまいりましたので、あらゆる善悪の縁に会うときにも、ただこの願いを行い、もろもろの神々の目をもって見るようにして今に至っているのです。

 

百二 このような妄想のごとき心境を申しあげるのは無駄ごとではありますが、しいてお尋ねいただきましたので、自分の初心の頃の願いを書き付け、お目にかけた次第です。

 

古沢尼さんに与える

 

百三 即心(ありのままの心)を明らかになさったと承りました。どのように明らかになりましたでしょうか。目に見え、心に知られるようなものは、即心ではあり得ません。初めて座禅をする人は、なによりも自分の心を見なければなりません。念が薄くなるにしたがって念が起こるのがよく分かるようになる時に、これを止めようと戦うのは間違いです。これを嫌わず、また愛着もせず、ただその念の起こる源を知りなさい。

 

百四 この念はどこから起こるのかと疑うなら、心のやりようがなくなり、一念が生じない時、そのまましばらくの間、見つめてみても、疑いはまだはれない。この心はいったい何ものであるかと徹底して見つめるとき、疑いの心が急にふと無くなって、自分の身の中に何もなくなり、十方の虚空と隔てが無い。これは道に入り始めて少し張り合いを得るところではあるが、この心境をみて促進である、これが如法(真理そのもの)だと思うなら、魚の目を真珠だと認めるようなものである。

 

百五 このような見地を長く心にとどめている者は、驕りの心が高くなり、仏を罵り、祖師を罵り、因果の道理を否定し、今の世においては魔におかされ、次の世では悪道に落ちるであろう。そうとは言っても、これを縁としてついには悟ることがあるだろう。これだけの道理すら納得せず、自分の心が仏であることを信ぜず、心の外に仏を求め、仏法を求める者は、現象に捉われる外道(げどう、仏教以外の教え)に百千万倍も劣るというものである。

 

百六 先にも言った通りである。何か考えが起こったような時は、急いで善知識(優れた師)のところに行き、自分の考えをありのままに提示して、その考えがすっかり破れて消えることがあるなら、氷がお湯に入ったかのように、明るい月が照らし、虚空が破れて、本来のありようを自分に返すことができた時、初めて「鉄鋸三台を舞う:鉄ののこぎりが三台(舞の名)を舞う」ということを知るであろう。鉄鈷とはのこぎりである。三台というのは舞の名である。自らよく見なさい、鉄鋸が三台を舞うとはどういう道理であるか。あれこれ思案を加えることなしに、まっすぐに疑ってみなさい。これは普通の道理ではありません。悟って初めて知ることができるでしょう。

 

百七 また、断食をする予定だとうかがいましたが、断食は外道のやりかたです。けっして、けっしてなさってはいけません。心の中の間違った知識や見解を獲得したり失ったり、肯定したり否定したりといったことを破り捨てるのが断食というものです。参究一筋になり、妄念がないのを長斎(食事の規則を長く守ること)というのです。少しでも特別で何か不思議なことを心にかけ、人にとって代わろうとするなら、それは皆間違った考えです。ただ心をゆったりとまっすぐにして、人の是非善悪を目にかけず、心が人にそむかずに、しかも一切が皆、夢まぼろしであると観て、嘆くことも厭うべきものではなく、喜ぶことも求めるべきものではないと知れば、日に日に心は穏やかになり、誤った認識と情念が溶け去って、病気も次第によくなるでしょう。

 

百八 心に悟るその悟りさえも捨てなさい。ましてや、目の前に浮かぶ幻を、それがどんな姿であっても、みな妄想であるとみて、尊んでもならないし、嫌ってもならない。ともかくもそれに取り合わずに、ただそれを見ている主人はいったい何者かと見なければいけない。

 

百九 お手紙で承った事柄について詳しく申し上げました。この手紙をお読みになって、少しも違うところなく、このように一心に修行なされば、たとえ今の生で悟ることがなかったとしても、次の世で必ず正しい見解をもった善知識に会って、ひとたびその語を聞いて一切を悟るであろうことは疑いがありません。

 

百十 これほどこと細かに申しますのは、本意ではありませんが、長く病気でおられる中からのお尋ねを頂戴したことですので、黙っていることもできず、分かりやすいようにと申し上げた次第です。