聖一国師(東福寺開山)仮名法語(二)

問い 善根(ぜんこん、善い報いの原因となる行為)の功徳を積まなければ、どうしてあらゆる徳が円満に備わった仏となることができるのか。

答え 善根の功徳を集めて仏になろうと願う人は、三大阿僧祇劫(1)を経過して成仏することができよう。ただ直指人心見性成仏(じきしにんしん、けんしょうじょうぶつ)(2)を修める人は、自己本来に立ち返るだけである。初めて仏という修行の成果を得るというわけではない。

 

(1)阿僧祇劫(あそうぎごう):「阿僧祇」は無数を意味する語で、劫は最大の時間単位。無数の劫という無間に永い時間のこと。菩薩が仏になるまでの段階を三つに分け、それを三阿僧祇劫と言った。

(2)直指人心見性成仏:禅の立場を表す語として知られる。「直接人の心を指して、本性を見届けさせ、成仏させる」。

 

問い 禅を修行する人は、善根の功徳の力を嫌うべきなのか。

答え 他人に利益を与えるために善根を積むけれども、望みというものが無いので、功徳を期待することはない。いかなる時においても無心であるからである。

問い 無心を最上のものとするなら、誰を見性し仏道を悟った証しとすべきなのか。

答え 一切の悪しき知識や見解、思慮分別を止めるのを無心の究極と言うのである。修行という見解を起こさないので、成仏をも望まない。迷いという見解を起こさないので、悟りをも求めない。大衆に交わるという見解を起こさないので、尊敬や名誉も喜ばない。憎しみや愛といった見解を起こさないので、自分と他人の親しさ疎遠さの差別もない。一切の善悪についてすべて考えない、これを無心の道人(どうにん、仏道を得た人)というのである。この道は、凡夫や二乗(にじょう)(3)が知ることのできるものではない。

 

(3)二乗:声聞条と縁覚条の二つ。自己の解脱のみを目指す小乗の聖者のこと。

 

問い さまざまなお経の中には、あらゆる善行の功徳を説いたものが多い。なぜ無心の功徳を直接説かないのか。

答え 本覚(ほんがく、仏としての本性を悟った)の菩薩は、すでに立派に理解しているが、それゆえに説かない。なので、法華経に、「無智人中莫説此経(無知の人の中にしてこの経を説くことなかれ)」(4)と説くのはこの意味である。さまざまな教えに八万四千の法門があるとはいっても、その源を尋ねれば、色空(しきくう)の二つの真理を出ることはない。色とは四大五蘊(しだいごうん)(5)からなる体であり、空とは、煩悩や菩提(悟りの知恵)の本性である。この身体に形があるので色と言い、心は形がないので空と言うのである。すべての境地は、この身心より以外に説くべきことはない。

 

(4)「無智人・・・」:法華経比喩品第三に出る。

(5)四大五蘊:四大は世界の構成要素と考えられた地・水・火・風の四元素。五蘊は人間を構成する五つの要素で色(物質)受(感覚)想(イメージ)行(意志)識(認識作用)。

 

問い この四大からなる形体(身体)は、元来、迷えるものか、悟っているものか。

答え 色心ともに本来、迷いや悟りの違いはない。一切は仮に姿を現しているもので、ただ夢や幻のようなものである。あらゆる事柄すべてについてあれこれ考えてはならない。

問い 二乗にもこの無心があり、菩提があり、涅槃(悟りの境地)がある。大乗とどれほどの違いがあるのか。

答え 声聞、縁覚の羅漢(らかん)(6)は、初めから身心を煩悩だと思ってこれを嫌い、身心を滅し尽くして枯れ木や瓦石のようである。このように修行しても、無色界(むしきかい)(7)の天人となるのである。これはすべて正しい仏法ではなく、小乗の得る結果である。大乗の無心とは異なっている。

 

(6)羅漢:阿羅漢。悟りを開いた仏弟子、高僧。

(7)無色界:心の働きだけからなる世界。三界(さんがい)の一つで、欲界、色界の上位の世界。

 

問い 大乗の菩薩には、この無心の道があるのかないのか。

答え 菩薩は、十地(じゅうじ)(8)に至るまでは迷いの知の妨げがあるのでまだ叶わない。その迷いの妨げとは、十地までは真理を求める望みがあるので、本来の姿にかなわないのである。等覚(とうがく)(9)を得た時、初めてこの無心の道に至るのである。

 

(8)十地:ここでは、悟りに至るまでの階梯を十の段階に分けた、最後の段階。

(9)等覚:菩薩の悟りの知恵が仏と等しくなった状態。正等覚。

 

問い この菩薩でさえ叶えられないのに、どうして初心の人がたやすくこの道を成就できようか。

答え そもそも真正の仏法は不可思議なものである。三賢十聖(さんげんじっしょう)(10)の位を立てることは、素質の劣った人のためである。素質の優れた人は、仏道への心をおこすとき、無心の正覚(ただしい悟り)を得るのである。

 

(10)三賢十聖:菩薩の段階のうち、十聖は十地であり、聖なる階位。それ以前の十住、十行・十回向はいまだ凡夫の階位で三賢と言われる。