大応仮名法語(五)

〇また言う。法法本来法(個々の姿はそのまま真実の姿)であり、心心無別心(時々の心のありさまは、そのまま仏心)である。世界や国土がいまだ姿を現さず、仏の世界と衆生(生きとし生ける者)の世界とがいまだ二つに分かれない前、この心は一人己を現し、天に先立ち、地に先立ち、太古に光り、現在に輝いている。それゆえに先人も言っている。「有物先天地,無形本寂寥,能為萬像(物)主,不逐四時凋。」(物があって天地に先立ち、形無くして本来寂寥である。よく万物の主となり、四季を追って凋落しない。[傅大士の言葉])ただ、、道を学ぶ人に必要なのは、本来の志を起こし、衆生と仏とが分かれる前、すなわち一念が生じる前について、心を込めて見続け、さらに見通し、究め続け究め通し、静かに見よ。修行が積もってその工夫が熟せば、明明として自己本来の心地(本来の面目)と本地の風光(日常の受容)とを見るはずである。もしもよく、このように、真実にこの心を知る者は、生き死にを超え、仏の世界をも超えて、独り楽しみ、安閑として求むる物がなくなり、無心の道人に他ならない。無常の時は速やかに過ぎ去る、時は待ってはくれない。心して勤めよ、勤めよ。それ生き死にを離れる道は、仏や祖師方が示した道だとは言っても、その源をたずね求めれば、自分の心をしかと明確に知ることより他のことではない。それなのに、人はみな、心即是仏(心がすなわち仏である)ことを知らず、外に仏を求め、むなしく疲れ果て、ついに本当の道理にかなうことがない。例えて言うなら、南の方に親が向かっているのに、その子は北に向かって求め行くので、進んでゆくほどますます親に遠ざかるようなものである。また心がそのまま仏であるだけではなく、十界*十如**、三千世界***、山河大地、草木国土、浄土穢土(清らかな浄土も汚いこの世も)、依正の二法(国土等と衆生等)は、すべて皆、心のうちに備わっている。心は本来、自分の本性というものが無いのであるから、いろいろと行った行為に従い、また向かい合った場面によって移り行くものである。物を害し、物を盗み、罪を犯して仏法をそしれば、心は地獄となり、欲深く間違った考えを抱けば心は餓鬼となる。暗愚であれば心は畜生となり、執着が強く高慢であれば心は修羅となる。五戒十善****を持てば心は人間や天界となり、他人を救わず自分の救いを求めれば心は声聞や縁覚*****となり、知恵や慈悲が深ければ心は菩薩となり、もろもろの悟りを開けば心は仏となる。物をうらやむ女がそのまま蛇の身を得たという例はたいへん多い。このように一心というものこそ、様々に変化するのであり、仏法はこの心の外にはまったく無いのである。例えば一つの金で十の世界の形を作るとすれば、形は違えども、金の本性は同じであるようなものである。物事は千差万別であってもこの一心を離れない。華厳経にいわく、「三界唯一心、心外無別法、心仏及衆生、是三無差別。(欲界・色界・無色界の三界はただ一心であり、心の外に真理はない。心と仏と衆生との三つに差別はない。)」また、「心は優れた絵師のようなもので、種々の五陰(色・受・想・行・識)を作る。世間すべてのもので心から生じないものはない」と。また、同じ経にいわく、「この心を浄法界の心と名付ける。浄法界というのは、晴れた空のようなものである。虚空の晴れている時は、ただ青くだけ見えてすべて他の物は無いのに、何処から来るのか雲が一つ来たと見ているほどに、その雲は次第に広がって全天を覆ってしまうと、風を起こし雨を降らす。その時は虚空の姿はみな失せてしまって、ただ黒い雲だけとなる。この雲を無明(むみょう)と名付ける。もろもろの煩悩の根源を無明と言うのである。心もまたこのようなものである。何事も思わないでいるときは晴れた空のようである。見聞きしたり意識したりする場面に出会って、一念偏意(一念の心の執着)が起こる時、たちまち妄念の雲が厚く覆って、本心はすべて埋没してしまう。そうはいっても妄念は生じたものであるので、ついには滅した後は、本来の心であるのである。雲が晴れれば清らかな虚空であるようなものである。

 

*十界:仏界、菩薩界、縁覚界、声聞界、天界、人界、阿修羅界、鬼界、畜生界、地獄界の十の世界。

**十如:十如是の略。如是は「このような」の意味。鳩摩羅什訳の法華経方便門に由来する天台宗の教義。すべての事象の「如是相,如是性,如是体,如是力,如是作,如是因,如是縁,如是果,如是報,如是本末究竟」をいう。

***三千世界:仏教の宇宙観にある、無数の世界が集まった全世界のこと。

****五戒十善:五戒は仏教の五つの戒め。不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不飲酒戒。十善は十悪を犯さないこと。不殺生・不偸盗(ふちゅうとう)・不邪淫・不妄語・不両舌・不悪口(ふあっく)・不綺語(ふきご)・不貪欲(ふとんよく)・不瞋恚(ふしんに)・不邪見。

*****声聞、縁覚:声聞は「教えを聞く者」の意。縁覚は「各自に悟った者」の意。