大応仮名法語(四)

〇尋ねて言った。大用現前(だいゆうげんぜん)の所(真如の大いなる働きがはっきりと目の前に現れたところ)とは、どのようなものか。

〇答えて言った。銀山鉄壁(ぎんざんてっぺき)(銀の山、鉄の壁)。

 

〇尋ねて言った。悟った時も銀山鉄壁、悟らない時も銀山鉄壁と言う。違いはどうなのか。

〇答えて言う。銀山というのは、この本性の当体が清らかで光明を放ち、一日中般若の智(悟りの知恵)の働きをし、通霄円覚(つうしょうえんがく:大空に行き渡る欠けることのない目覚め)の霊なる光を放って、天真独朗(てんしんどくろう:うまれたまま朗らかで一つ)である本来の根源的に清らかな心の当体を銀山と言うのである。鉄壁というのは、この本性の当体が十方(あらゆる方向)の空間に行き渡る真実の世界に満ちて、進めば前にあり、下がれば後ろを押さえ、口を開こうとすれば顎を押さえ、言葉を出して明らかに出来ないところ、ここを鉄壁と言うのである。この本性の当体は、さまざまな仏たちが世に出ても、その悟りと一体となるということもなく、衆生(いきとしいける者たち)が輪廻転生しても、その迷いと一体となるということなく、ゆったりと寂静であり、迷いや悟りと一体とならず、それゆえに悟る時も銀山鉄壁、悟らない時も銀山鉄壁と言うのである。そもそも千七百則ある公案*は、すべてこの一つの心の別名である。ある時には本体を指し、ある時には働きを指し、ある時には姿を指す。ある時には本体・働き・姿を一つの言葉で現すこともある。このように言葉は無数にあるといえども、指すところは本来の場所の輝き、本来の姿を表してはいない。人々はみなその言葉に固執して、その道理を知らない。このような人は不立文字(ふりゅうもんじ)**の宗旨を滅ぼして称名念仏***の人と同じである。あるいはまた、切り株を守って兎を待つ****のと変わらない。千七百則の公案は、ことごとく虚空に満ち満ちて髪の毛一筋の隙もなく、万里一条の鉄(ばんりいちじょうのてつ:広大な広がりすべてが一枚の鉄)であると見て取って、迷いや悟りや、獲得したとか失ったとか、本来一物も得ることのできるものもなく、また捨てることのできるものもないと知れば、ほんの少しの真理さえ心に触れることはない。一体、このことの何を提̪撕(ていせい:呼び覚ましさとす)するというのか。江月照松風吹。氷夜清宵何所為*****。

公案(こうあん):座禅のときに心を集中して取り組む問題のようなもの。

**不立文字(ふりゅうもんじ):不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏と言われる禅の本質の一部。文字によらず、教えの他に伝えるものがある、直接人の心の本性を指して悟らせ、成仏させる、の意。

***称名念仏(しょうみょうねんぶつ):阿弥陀仏の名を唱える念仏のこと。ここでは禅師は、言葉で仏の名を唱えるだけでその本性を見ないことを批判している。

****切り株を・・・:『韓非子』にある説話「守株待兔(しゅしゅたいと)」ある日農夫がたまたま切り株に頭をぶつけて死んだ兎を得たことから、その後鍬を捨てて切り株で兎を待つ農夫の愚かさを言った諺。北原白秋作詞の動揺「待ちぼうけ」でも知られた。

*****江月照松風吹。氷夜清宵何所為:江月(こうげつ)照(て)らして松風(しょうふう)吹(ふ)く。永夜(えいや)の清宵(せいしょう)何(なん)の為(なす)所(ところ)ぞ。永嘉禅師『証道歌』にある句。月が川を照らして松風が吹く。長い夜の清らかな宵はなんのためにあるのか。テキストでは「氷」となっているが「永」か。

 

〇また説いて言った。初心の人、また年取って学ぶ人も、もし自己を明確にし、生き死にということを明らかにしようとするなら、第一に仏道に向かってはならない。ましてや迷いというものを嫌ってはならない。目の前の物に執着せず、心の内に道理を認めず、内も外もすかっとして、手足を離れてはならない。ここに至って、もし実際に工夫を怠ることなく、自分の工夫が転換して、たちまちに知を忘れ、空に透脱(とうだつ)し去るならば、カラリとして身が無くなりまったき真如となる(脱体円成)だろう。あらゆる機縁やあらゆる状況も、自分も他者も無くなり、目が無くて見、耳が無くて聞くようなものである。このようになるのをしばらく名付けて大安楽、大自在、無碍(滞りのないこと)の道場と言うのである。疑ってはならない、疑ってはならない。よく覚えておくのだ。お疲れさん。