塩山仮名法語(12)=終わり

井口殿へのお返事

 

百二十四 お手紙、詳細に拝見しました。このように熱心に参究なさいますこと、貴重なことと存じます。そもそもお手紙を拝見しましたところでは、少し似ているところもございますが、それもただ心が知るところでございます。一大事は、心の知るものでもありませんし、知恵の推し量ることのできるものでもなく、悟って明確であるところだといっても、みな妄想のたぐいでございます。それは前便で申し上げたとおりです。そこで死んだ者が蘇ったかのようである時、声を聞く者が現れるはずだと申し上げたことについて、この聞く者はどのような者かと突きつけ続ける時、突きつけるより他には塵ほども物のない時、この声を聞く主が現れたとお思いになられたこと、大いなる誤りでございます。

 

百二十五 剣を突き付けて一切のものを断ち切るように、この公案を突きつければ、心にあるものが皆切り捨てられてしまって、虚空も切り破って、そのように突きつけるほかに何もない、と承りました。そうしてこのように突きつけるものは何者であるかと、そこをお究めになられれば、声を聞くものと別ではございません。ここを究め尽くさなければ、たとえ何度も悟って仏法を知るところ明らかであるとしても、いまだ生死の根源を断ち切らない人であって、口で法門を説くことができるだけで、心の中には妄想は止まないので、次の世では必ず三悪道(地獄・餓鬼・畜生)に落ちるでしょう。

 そうは言っても、そこでとどまることなくして、そこを守って死ぬならば、次の世には必ず生まれながらに悟るでしょう。けっしてけっして気落ちして退いてはいけません。また怠ってもいけません。

 

百二十六 ただこの公案をよく御覧になって、身も聞かず、虚空も聞かず、それではどのようなものが声を聞くものであるかと究める時、理解を加えることなく、思いはからう所なく、悟りを待つ心なく、心を働かせる所なく、まったく心のゆくえが無くなり、どうしようもない所において、悟りも知恵も失せ果てて、木や石のようになる所にとどまらずに、何日も究め続けて行けば、必ず大いに悟って、生死の根源を断ち切り、無心の本地に至るでしょう。

 

百二十七 生死の根源というのは、情識(誤った知と感情)に他なりません。これは自己の心とも言い、人我の心(にんがのしん)とも言うのです。

 

百二十八 古人も言っています。別に悟りというものもない、ただ日頃の情識を止めるのだ、と*。ただこの己というものを消し尽くすことが悟りの上の大事なのです。このように詳しく申し上げることは、人に見せるのもはばかられますが、わざわざ今までお手紙を頂戴してきましたので、黙っているわけにもゆかず、申し上げました。

*原文は「凡聖を尽くす」だが、古田氏に従って「凡情を尽くす」の誤植と見る。

 

また、比丘尼へのお返事

 

百二十九 お手紙、詳しく拝見しました。何よりも、ご修行に励まれているご様子を細かに承り、貴重なことと存じます。京都へ上るのであれば西へ行かねばならないと思っていたのは誤りで、どこも京都であったとお思いになって後、まだ茫然として、「是は一体何者か」ということより他には頼りとはしていない、と仰るのは、どこでも都であるとお知りになったけれども、まだ王に対面していないからです。王というのは、自分の父母未生以前の本来の面目のことです。

 

百三十 少し疑心が破れると、自分の心は虚空のようであり、仏もなく、衆生もなく、昔もなく、今もない。胸のうちは落ち着いていて、ただはっきりと輝く月の姿が世界を照らし、しかもその姿形を取りだしてみることはできず、人に向かって言い表すことができないようなものです。これは少し参究したしるしではあるのですが、それでもまだ心の病です。これを自分の顛倒(てんどう:まったくの思い違い)とも言い、また生死の根源とも言うのです。これを打ち破るのを根源を断ち切ると言うのです。仏道への志がない人は、この状態をもって古人の公案を推量して集め、悟るところがあったと思うのです。ただ、悟ったところに愛着することなく、直接、悟る主を究める時、先の見解はみな破れ落ちてなくなること、火が物を焼くようなもので、剣が物を殺すようなものです。

 

百三十一 善や悪の相が、髪の毛一筋ほどもない所について、これは一体何かと究め尽くす時、死にきった者が蘇ったようになる時、そこに到達すれば、主人公が現れるのです。

 

百三十二 徳山*が言うには、言うことができても三十回棒で叩くし、言うことができなくても三十回棒で叩く、どうすれば過ちを免れる事ができるか、と。もしこの棒を免れることができれば、東山水上行**(とうざんすいじょうこう:東山が水の上を進んで行く)ということを知るだろう。

*徳山:徳山宣艦禅師(782年-865年)。徳山の棒、臨済の喝、と並び称せられる。

**東山水上行:『雲門録』に出る語。東山は、中国各地にある名山の名前。

 

百三十三 このように申し上げることは、憚られることでありますが、あなたの志が貴重なものと思い、申し上げた次第です。これは、我が身が申し上げるものではございません。優れた師僧たちの仰ったことを、承ることができた所を申し上げたのです。

 

 寛永二十年(陰暦)二月吉日 中野是誰が新たに版を刻む

 

塩山仮名法語 終わり