〇また、この心を一つの鏡に喩える。心に浮かぶ念を、鏡に映る姿に喩える。この心の鏡に、善を行う時は善の姿が映り、悪を行う時は悪の姿が映る。心で捉えた行いやその結果のすべては、心の姿となって、この姿にひかれて六道四生*の輪廻に沈むのである。心で捉えた姿にひかれるというのは、一切のことを心に取り決めて、その取り決めに深く執着して離さないので、最後の臨終のときになって地獄や餓鬼などのさまざまな世界を見いだして、それに従って種々の生まれる場所に赴くのである。もともと心の他には善い場所もないのであると知れば、どうして善悪の生を引くことがあろうか。例えば世間が寒いとき、柔らかな水も固い氷となるようなものである。氷は水の他のものではない。有も有と名乗らないのに、自分が執着して有とし、空も空と名乗らないのに自分が執着して空とする。例えば人が一人の赤ん坊をもうけて、初めは鶴と名付け、次に名を変えて亀と名付けた後は、前の鶴の名は忘れてただ亀とだけ認める。また松、竹などの名前に変わっても、変わるごとに前の名前は忘れて、ただ今の名前だけに執着するようなものである。その名前を取り除いてみれば、ただ元の赤ん坊であるだけなのだ。このように、自分が物に名前を付けておいて、その名前に執着して、無い事を有ると思い、その思いに引かれて流転するのである。安国師が言うには、もし善に留まって心を生じれば善が現れ、悪に留まって心を生じれば悪が現れて、本心はたちまち隠れてしまう。善悪に留まらない時は、十方世界**ただこれ一心である。そもそも、様々な物を納めているその心は一体どこにあるのか、求め尋ねてみてもまったく行くえの知れぬものである。内にもなく外にもない。もし内にあるのなら五臓六腑を見るだろう。もし外にあるのなら中国やインドなど心に浮かぶ場所を皆見るだろう。本当に色もなく、形も分からないのであるから、本心は無いものなのである。本心がすでに無いのであるから、その影である念(思い)も存在するはずはない。双方ともに無いとなれば、どこに思いの影が移り、業(ごう)の影が留まるだろうか。このように無い事に迷って、善悪の果報を受けるので、仏陀は、もろもろの事柄は夢のようであり、また幻のようであるとお説きになったのである。夢をみるときは善も悪もありありと思われるが、覚めてみれば何もない。夢幻は形を結ぶ始まりもなく、覚めて消える終わりもない。善悪の物事は、善悪の状況に引かれて生じるが、その源をみれば、始めもなく終わりもない。夢がさめたのちは何も無いようなものである。しかし夢も本当には無いけれども、悪い夢を見る時は、苦痛は耐えがたく、良い夢を見る時は喜んで楽しむ。凡夫(ぼんぷ:仏法を悟らない者)はこの念のうちにあって、生死の深い夢を見る。朝夕の状況の因縁に対して悪念ばかり起こす。それゆえに悪夢ばかりを見て、三悪四趣***に落ちたと思っている。仏陀は善悪の起こる源を知って、執着する心が無いゆえに、しじゅう念を起こしても、無念となる。無念のところを仮に心と言うのである。心と言うのは、名前ばかりあって本当の形はない。古人は無心と言った。このように心得れば、念から形をなす生死はあるはずがない。このように見て知り遂げるのを、いささかの見性得果****と言うのである。そうなれば、嫌うべき生死もなく、喜ぶべき極楽もない。迷いと悟りの隔てもなく、凡人と聖人の隔てもない。ここを生死を離れると言い、浄土に往生すると言い、仏になるとも言うのである。それゆえに観無量寿経には、「是心作仏、是心是仏、諸仏正遍知海、従心想生」(ぜしんさぶつ、ぜしんぜぶつ、しょぶつしょうへんちかい、じゅうしんそうせい:この心が仏をなし、この心が仏である。諸仏の海の如く広い悟りは、心より生ずる)と言い、『往生礼賛』*****の晨朝(じんちょう:朝のお勤め)の言葉に「西方遠しということなかれ。西方己が心に安んずる」(西方浄土は遠くにあると言ってはならない。西方浄土は自らの心のうちに静まっている)とも言うのである。また、黒谷の金剛法界章******には、阿弥陀とは心の異名であると言う。(続く)
*六道四生(ろくどうししょう):六道は、人が輪廻すると言われる地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六つの世界。四生は、卵生、胎生、湿生、化生という四つの産まれ方。
**十方世界:八方位に上・下を合わせたあらゆる方角、場所のこと。全世界。
***三悪四趣(さんあくししゅ):三悪は、地獄・餓鬼・畜生の三悪道のこと。四趣はこれに阿修羅を加えて言うもの。
****見性得果(けんしょうとくか):見性は自らの本性を悟ること。得果は修行の成果を得ること。
*****『往生礼賛』:善導大師の著作の一つ。六時(日没・初夜・中夜・後夜・晨朝・日中)における浄土教の実践・儀礼について書いたもの。
******黒谷の金剛法界章:法然上人述と言われる『金剛宝戒章』のこと。