月庵禅師仮名法語(五)

〇  信女(1)慶明に示す

 

 仏法というのは別の事ではありません。ただ自分の心のことなのです。自分の心を善く保てば、そのまま仏の心であり、自分の身を善く持てば、そのまま仏法です。自分の心を悪く持てば凡夫の心であり、自分の身の振る舞いが悪ければ、凡夫の行いです。凡夫の行いというのは、目に好ましい物を見て欲を起こし、耳に好ましい声を聞き、鼻に好ましい香りをかぎ、舌に好ましい味をなめ、その身は男女に互いに触れて喜ぶ気持ちを起こすことです。それゆえ、自分に従うものには愛執の心を深くし、自分に背けば怨敵だという念を強くします。この身がはかないものであることは、夢幻、水の泡や影のようなもの。今日生きているといっても明日まで期待することはできません。たとえ百年の年齢に至ったとしてもただ昨日の夢のようなもの。そのようにはかないものであることを思い知らず、いつまでもこの世に居られるように思って、妻子や身内のさまざまな好みや困りごとに明け暮れ対応するばかりで心も疲れ、身も苦しく、何かにつけて難しい事が絶えません。また財力のある人は、いよいよ財宝を重ねて持ちたいと思うので、利息付で金を貸したり売り買いをしたり様々な事をして、絶えず飽き足らない思いをしています。貧しい者は、自分の身一つでさえ助けることが難しいので、妻子や身内まで養うことはできず、あれこれと明け暮れ考えてはみるものの良い考えも浮かばないので、盗みもしようかとさえ思うけれども、それはまた命を失う事であるから、怖く思ってできず、物乞いなどもまた、自分一人の事だけでもすまないので、それもまたかなわず、どうしようも手だてがなく、明け暮れ嘆き悲しむばかりです。善きにつけても悪しきにつけても人間のすることには苦しみが多く楽は少ないのです。今の苦しみはそのまま来世での地獄、餓鬼、畜生、修羅などもろもろの悪道の業となって自分の身を焼き焦がす炎、また切り裂く剣に違いありません。これらすべては他人がしでかした過ちではなく、ただ自分の心遣いや身の振る舞いが悪いことによって、そのような苦しみを受け、幾度も生まれ変わって悪道に浮き沈みするのです。たとえまた人間に生まれて、位の高い人とか裕福な者となり、あるいは天上に生まれてあらゆる楽しみを受けたとしても、これも真実の道心がなくて名誉や利益のために善行を積んだ報いであるから、一時の楽しみばかりであって、死んでしまえばまた悪道に堕ちるので、これもずっと楽しむことはできません。これらはみな善悪の違いはあっても、心の持ち方が悪いことによって直ちに仏法を悟ることができず、生死の輪廻を免れることはできません。そもそも心を善く保ち、身の振る舞いを善くするとはどういうことでしょうか。自分の心は、自分の身がまだ生まれず、父母の縁がまだない以前に、非常に明瞭に、隠されずくらまされず、迷うこともなく何の差し障りもないものです。上は仏や祖師方と同じく、下は一切の衆生(命あるもの)あるいは心のない草木までも、一体であってまったく二つということも三つということもない、この心は天然で私(わたくし)とうものがなく、それゆえ仏においても増すことはなく凡夫にあっても減ることはありません。さまざまな善悪においても隔てはなく、僧侶も俗人も変わりはありません。このようにありのままであることを知らず、仏を貴く思い、衆生をいとわしく思うことによって、自分の心のありのままであることをも弁えず、本来生死がないことをも知らず、ぼんやりとして日々を明かし暮らすばかりなのです。これはすなわち、生きながら暗い地獄に落ちているということです。この暗い闇を離れて、ただちに明るい仏の心になろうと思うならば、ただ一切善悪是非の思いを打ち捨てて、わが身のいまだ生まれない以前の心はそもそもどのようなものかと立っても座っても忘れず、念々に極めてみなさい。もしまたあらゆる事柄に遭遇して難しく、紛らわされてしまうように思うのであれば、閑寂な場所で静座して、まずお香をたき、仏を三度拝み、そのあとで手を組み、足を組んで坐禅しなさい。手の組み方は、まず右の手を上向きにして下に置き、左の手を上向きにしてその上に重ねて、両方の親指の先を指し合わせます。足は左の足を右の足の上に重ねなさい。目は半分ほど開いて、口はふさぎ、歯を食い合わせて、下を上のあごにつけ、奥歯をよく食い詰めて、背をまっすぐに立て、心を強くもって、先に示したように、自分もまだ生まれない以前の心はどのようなものかと、念々に疑て極め極めてみなさい。このように座っても寝ても、あらゆる事を行う時も、忘れずに用心するのを工夫(くふう)と言うのです。このように坐禅工夫して怠ることのないのを、身も心も善く保ちふるまう人と言うのです。このように熱心に中断せず極めて見るなら、必ず自分の心の源を悟るでしょう。心の源を悟れば、本来仏もなく衆生もなく自分もなく他人もありません。善悪是非、一切の煩わしい思いは、夢が覚めるように、何事も打ち破れて、ただ自分もなく、先の天然の私のない心ばかり現れて明々白々です。このようになった上は、またあらゆる思いが浮かんできたとしても、すべて煩い(わずらい)はありません。譬えるなら鏡の上にさまざまな姿が映るように、水の中に月の光がはっきりと見えるかのようです。これは心でもなく物でもなく、念でもなく、状況でもなく、けっきょく何でもなく、これを真心とも言い、正念(しょうねん、ただしい心の在り方)とも言い、仏境界(ぶつきょうがい、仏の境地)とも言い、常住法(じょうじゅうほう、永遠の真理)とも言い、本来の面目とも言い、教外別伝(きょうげべつでん(2))とも言う。千回生まれ変わり一万劫という長い時間生じたり滅したりするようでありながら、ついにこの心は生じることも滅することもなく、場所に応じて自由に去来し、一切差し障りがない。これを真実の極楽世界、安養浄土(あんようじょうど(3))、大宝蔵(ほうぞう、宝のくら)、無為(むい)の都(4)と言うのです。このような有難いことを信じてまた疑わず、先に示したように坐禅工夫をするなら、たとえ今の一生で悟ることはなかったとしても、臨終の時、正念のままで去るに違いなく、さらに悪道に堕ちるはずはありません。すみやかに身を変えて、貴き人に生まれて若い時から仏法の修行をして、すぐに悟る人となって、一切の衆生を導き、人間・天上世界の大導師となるでしょう。けっして疑ってはなりません。

 

(1)信女(しんにょ):在家の女性の信者のこと。現在では戒名に使用される。

(2)教外別伝:禅宗の立場を表す「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」として知られる。教えのほかにこの一心を伝えるということ。

(3)安養浄土:極楽浄土のこと。そこでは心が安らかとなり身が養われることからいう。

(4)無為の都:無為は生滅変化する有為(うい)の反対で永遠のこと。いろは歌に「有為の奥山今日超えて(うひのおくやまけふこえて)」とある。