月庵禅師仮名法語(六)

〇  妙光禅人に示す

 

 先日の十八首の素晴らしい和歌は、言葉の意味が絶妙であり、特に目も心も驚かすようなものでしたので、重ねて法語一篇をお示しすることを承りました。山野は私の老いや病をともに害して、明け暮れ臥せり、心身はぼんやりとして、ただ愚かにしているのみです。仏法などかつて知らず、言葉もまた理解せず、その上いったい何を説き、またどのように示そうというのでしょうか。そうとはいっても、ただこの知らず、理解せず、三世(さんぜ、過去・現在・未来)の仏たちもついにどうすることもできず、歴代の祖師方も息をのみ声をつぐんでしまう所、全世界の人は、いったいどこに向かって尋ね求めようと言うのでしょうか。ここに至って、あなたはどのように推し量り、何に照らし合わせるでしょうか。私はただちにこのように言いましょう。常日頃腹の底から徹底的に疑い尽くした、と。あなたは理解したでしょうか。もしまた元来の思いが行きつ戻りつして(1)垣間見ることができなければ、ただこの知らず理解せずという所について、一日じゅう、行住坐臥、茶を飲み飯を食べるときも、笑っている時も語っているときも、一切の振る舞いをしながら、大いに勇猛の志を起こし、しっかりと眼をつけて、一瞬一瞬、これは一体何であるかと極め見なさい。およそ仏道を学ぶ人は、この知らず理解せずという所を、即座に抜け出して悟ることができず、ある場合には、すでに知らず理解せずというのだから、さらに何を極め、何を悟るというのかと思う人もいる。またある場合には、知らず理解せずと思ってさらに進むことのできない人もいる。あるい場合には空劫已然(世界が滅亡して何もない時よりさらに過去のこと)だと思い、あるいは常日頃の心の持ちようだと思い、ある場合には、すべての物ごとが自分の本性だと思い、ある場合には本来の面目(本来の自分の姿)だと思い、ある場合には即心即仏(そくしんそくぶつ、心がすなわち仏である)と思い、ある場合には非心非仏(ひしんひぶつ、心にあらず仏にあらず)と思う(2)。ある場合には不是心、不是仏、不是物(ふぜしん、ふぜぶつ、ふぜもつ、心でない、仏でない、物でない)と思い(3)、ある場合は、山はこれ山、水はこれ水、柳は緑、花は紅、と思い、ある場合は全体作用(ぜんたいさゆう)(4)と思い、ある場合には教外の玄機(教えの外の深い働き)だと思い、少しでも口を開けばいつわりとなり、念を動かせば背いてしまうと言う。ある場合には人にちょっと問われて棒でなぐったり、喝を発したり、近づいて叉手(さしゅ、腕を胸の前で重ねて敬意を示すこと)したり、袖を払ってさっさと行ったり、いろいろの技量を示すものもいる。このように様々に異なる見方や間違った解釈は数えきれない。これらはみな天魔外道(てんま げどう(5))の心です。多くはこのような間違った道に落ちてしまって正しい道を知らず、ただ今の一生のことだけではなくて、千回生まれ変わり一万劫という長い時間、生死の海に浮き沈みして出ることができず、まったく憐れむべき者です。これはただ誠の志がないことによって、命を捨てるまでの限界に到達することができず、ただただ妄念妄想で仏法を見積もって推し量ることによるのです。それゆえ素質が悪く無知な者は、どのように励ましても気づく心はありません。あるいは、知恵がないので、少し思い知った程度のことを究極のことだと思って、それ以上修行に励む心がありません。また賢く聡明な者は、真実のところが少なく、見掛けだけのことが多いので、知らないことを知っていると思い、明らかにしていないことを明らかにしたと思って、いろいろと尽きない屁理屈を出し、自分が至らず及ばないところまでも推測して、仏法でも世間的真理でも知らないことはなく疑問はないと思っています。このような衆生は千の仏が世に出られても救う手立てはないので、どのように救済すればよいのか。これもただ、最初の志が薄く、善知識(ぜんちしき、よい先導者、師匠)に会わなかったことで邪正を見分けることができず、自分の考えだけに基づくことによるのです。もしこのような道理を正しく判断して端的な所を本当だと見て取れば、いったいそれ以上何をあれこれ論じましょうか。路が無くなった所でさらに歩みを進めて、確信の力が極まったとき、いよいよ志を励まして、精神を尽くし、腹の底から極め極めて見なさい。必ず無心の中に忽然として身をひるがえす時が来るでしょう。その時に初めて知るでしょう。私が言う知らず理解もしない所という語は、あなたの眼を見えなくする害毒、あなたの身を縛る縄であることを。そうとはいっても

 不因樵子径(しょうしのみちによらざれば)

 争到葛公家(いかでかかっこうのいえにいたらん)

   樵(きこり)の行く小道を通らねば

   どうして葛洪(6)の家にたどり着けようか。

このことを良く思案しなさい。

 

(1)原文は「根思遅回にして」。「遅回」は「遅廻」として「根思」は未詳だが今、このようにとっておく。

(2)馬祖道一禅師(ばそ どういつ禅師、709-788年)は「即心即仏」とも「非心非仏」とも説かれた。(Cf.『無門関』第30則、33則)

(3)不是心、不是仏、不是物:南泉普願(なんせん ふがん禅師、748ー835年)の語。南泉禅師は馬祖禅師の法嗣。

(4)全体作用:臨済録に出る。

(5)天魔外道:天魔は修行をさまたげる悪魔、外道は仏教以外の教え。

(6)葛公:葛洪水(二八四―三六四)は道教の研究家。もと唐代の詩『過楼観李尊师』から禅家が用いるようになったらしい。文脈からすると、人も知らぬ険しい山の小道を行くような労苦を重ねてこそ、無為の住まいに初めて到達する、といった意か。