至道無難禅師「無難禅師道歌集」(4)

六十三、  いろいろと苦しむ人に

   何事も修行と思いする人は

   身の苦しみは消え果つるなり

  (何事でも修行と思ってする人は

   身の苦しみは消え果るのである)

 

六十四、  徳山(とくさん)*について

    天地(あめつち)の外まで満つる一棒に

    仏さえなくなりにけるかな

   (棒で打ったその一打は天地の外まで満ちており

    仏さえもなくなってしまうのだ)

*徳山禅師:徳山宣艦(とくさん・せんがん)禅師(780年~865年)。修行者に教えるのに棒で打つ手段を用いた。臨済禅師の喝(かつ、大声を発すること)と並んで、「臨済の喝、徳山の棒」と呼ばれた。

 

六十五、  仏道を教えていた人に

   道という言葉に迷うことなかれ

   朝夕おのがなすわざと知れ

  (道という言葉に迷ってはいけない

   朝夕に自分が行なっていることだと知りなさい)

 

六十六、  世を捨てるということについて尋ねた人に

   捨てて見ようき世の外(ほか)のおもい出に

   しかもうき世にすみぞめの袖

  (捨ててみなさい。この浮き世を離れた思い出は

   こんなにもつらい世の中に住むことから逃れる墨染(すみぞめ)の衣である)

[「おもい出に」は別の本では「おもい出を」になっている]

 

六十七、  仏を問う人に

   仏とはいかなるものを言うやらん

   身にも知られず心にもなし

  (仏とはどんなものを言うのであろうか

   身にも知られないし、心にもないのに)

 

六十八、  色事に迷う人に

   うつくしきかたちと見るは心なり

   迷うはおのが身よりなすなり

  (美しい姿と見るのは心である

   迷うのは自分の身からするのである)

 

六十九、  妙法*を問う人に

   身も破れ心も消えて無けれども

   向かえるもののしなにまかする

  (身も破れ果て心も消えて無いのだが

   対面したもののそれぞれにまかせるのである)

*妙法:言葉でいい表せない優れた仏法のこと。

 

七十、   僧衣を着ることについて

   畜生の形に着たる袈裟衣

   天より縛る縄と知らずや

  (動物の姿につけている袈裟衣は

   天から縛る縄と知らないのだろうか)

 

七十一、  極楽を願う人に

   極楽の玉のうてなは外(ほか)になし

   生きながら身の無きを知るべし

  (極楽の蓮の玉座は他にはない

   生きながら身の無いことを知りなさい)

 

七十二、  仏法を説く法師に

   殺せ殺せわが身を殺せ殺し果てて

   何も無きとき人の師となれ

  (殺せ殺せ自分の身を殺して殺し尽くして

   何も無いときに人の師となれ)

 

七十三、  仏道を教えて

   てぐるぼうを回すは人の回すなり

   人を回すは一物もなし

  (操り人形をまわすのは人がまわすのである

   人をまわすのは一物もない)

 

七十四、  道理をわきまえず定めに従わない人に

   さりとてはこれほど報う善し悪しに

   何とて人は慈悲をせざらん

  (なんとまあこれほどに報いのある善悪の行いなのに

   どうして人は慈悲の行いをしないのだろうか)

 

七十五、  仏道を問う

   物の名はそのいろいろに変われども

   名無しの名をば呼ぶ人ぞなき

  (物の名前はいろいろに変わるけれども

   名無しのものの名を呼ぶ人はないのである)

 

七十六、  心

   神仏また天道と名を変えて

   ただ何もなき心をぞ言う

  (神や仏やまた天道と名前を変えて

   ただ何もない心を言うのである)

 

七十七、  また

   何も無き心を常に守る人は

   身の災いは消え果るつなり

  (何も無い心を常に守る人は

   身の災いは消え果てるのである)

 

七十八、  仏道に達した道人は言いたいことを言うが人の妨げとならないと言う人に

   何も無きものより出づるものなれば

   なす物事にさわらざりけり

  (何もないところから出るものであるから

   いろいろと行う事の障害とならないのである)

 

七十九、  念仏修行をする人に

   仏とは何馬鹿やつが言いそめて

   名も無きものに迷いこそすれ

  (仏とはどんな馬鹿者が言い始めたのか

   名前もないものに迷うだけなのに)

 

[別の本ではここに二首多く入っている。]

 

八十、   法師に

   衣をば虚空になりて着れば着る

   坊主の着るは罰(ばち)受くるなり

  (袈裟衣は虚空になって着れば着れるが

   坊主が着るのは罰を受けるのである)

 

八十一、  仏道の大道を問う人に

   素直なる道を守るは心なり

   道を破るはわが身なりけり

  (すなおな道を守るのは心である

   道を破るのは我が身なのである)

 

八十二、  仏法を聞いて人に笑われると言った人に

   阿呆とも思わば思え言わば言え

   仏の道に入る外(ほか)はなし

  (阿呆とも思うなら思うがよい、言うなら言えばよい

   仏の道に入るほかはないのである)

 

八十三、  仏道で知恵を嫌うことを

   人のうえ我が身につけていろいろの

   悪しきに出づる知恵と知るべし

  (人の事情やわが身のことでいろいろと

   悪いことがあると出るのが知恵だと知りなさい)

 

八十四、  私の友だちが山に入ったのを訪問して

   心より外(ほか)に入るべき山もなし

   知らぬ所を隠れ家にして

  (心のほかに入るべき山もない

   知らないという所を隠れ家にして)

 

八十五、  臨済禅師について

   おのれめが破戒の比丘(びく)となる事は

   仏祖を殺す報いなりけり

  (自分が戒律を破る僧となる事は

   お釈迦さまや祖師がたを殺す報いなのである)

 

八十六、  死んで後の世を願う人に

   死んで後を仏と人や思うらん

   生きながら無き身を知らずして

  (死んでから後を仏だと人は思っているだろうか

   生きながら無い身を知らないで)