至道無難禅師「無難禅師道歌集」(3)

四十一、  大法を理解できない人に

   あきらけき仏の道に入り得ずば

   ただ怠らで願え後の世

  (賢明な仏の道に入ることができないのであれば

   ただ怠らないで、死んで後の世を願いなさい)

 

四十二、  心の鬼を問う

   世の中の人は知らねど罪あれば

   わが身をせむるわが心かな

  (世の中の人は知らなくとも罪があれば

   自分の身を責める自分の心であるよ)

 

四十三、  大道をよく知って人の師となれと思って詠む

   本来のものとなりぬる印には

   おかすことなき身のとがと知れ

  (本来のものとなった印として

   身の過ちを犯さないということがあると知りなさい)

 

四十四、  大道に至ったことを

   少しなりと身に善し悪しの有るものは

   本来のものとならぬなりけり

  (少しでも身に善し悪しがある者は

   本来のものとなってはいないのである)

[「有るものは」は別の本では「有るうちは」になっている]

 

四十五、  子どもをたくさん殺した人に教えて慈悲をさせれば善くなる人に

   慈悲はみな菩薩のなせるわざなれば

   身の災いのいかであるべき

  (慈悲はすべて菩薩の行う行為であるから

   身の災いというものがどうしてあるはずがあろうか)

 

四十六、  身の過ちを改めて喜ぶ人に

   おそろしき我が身のとがを改めて

   大安楽に入る法の道

  (恐ろしい自分の身の罪を改めて

   大安楽に入る仏法の道であるよ)

 

四十七、  三世不可得*

   いろいろに表れいづる心かな

   心のもとは何もかも無し

  (いろいろと表れ出る心であるよ

   心の元はまったく何も無い)

*三世不可得(さんぜふかとく):三世は、過去・現在・未来の三つの世のこと。不可得はこれといって把握できないこと。

 

四十八、  道を問う人に

   天地(あめつち)の外までみつる身なれども

   雨にも濡れず日にも照られず

  (天地の外まで満ちる法身であるけれども

   雨にも濡れないし、日にも照らされない)

 

四十九、  老人に

   愚かさのなど身の上に積もるらん

   老い弱りても死を知らぬなり

  (愚かさがどうして身の上に積もっているのだろうか

   老いて弱っても死ということを知らない)

 

五十、   長生きを好む人に

   千世(ちよ)経(ふ)べき心を思い捨てぬべし

   月日はいつも同じことなり

  (生まれ変わって千もの世を経て行く心を思い捨てなさい

   月日はいつも同じことである)

 

五十一、  あまた(たくさん)道のことを尋ねる人に

   いろいろの教えに迷う法の道

   知らずば元のものとなるべし

  (さまざまな教えに迷う仏法の道

   知らなければ元のものとなるだろう)

[「あまた」は別の本では「あまたに」としてある]

 

五十二、  また

   さかしまに阿鼻地獄へは落つるとも

   仏になるとさらに思うな

  (真っ逆さまに阿鼻地獄へ落ちたとしても

   仏になるとはけっして思ってはいけない)

 

五十三、  慎みを問う人に

   つつしみといえる言葉に迷うかな

   ただ何もなき心をぞ言う

  (慎みという言葉に迷っていることだ

   ただ何も無い心を言うのである)

 

五十四、  ある人に

   何事も凡夫に変わる事はなし

   仏祖*というも大魔なりけり

  (何であっても凡夫と異なることなどないのである

   仏や祖師というのも人を迷わす魔物なのである)

*仏祖:仏はお釈迦様、祖はお釈迦様の法を継いだ歴代の師のこと。

 

五十五、  夢を問う

   寝ても夢起きても夢の世の中を

   夢と知らねば夢はさめけり

  (寝ても夢であり、起きても夢であるこの世の中を

   夢だと知らなければ夢は醒めるのである)

 

五十六、  また

   生きているものを確かに知りにけり

   泣けど笑えどただ何もなし

  (生きているものを確かに知ったことだ

   泣けど笑えどただ何も無い)

 

五十七、死して後を確かに思い知りにけり

   ただ何も無し無きものも無し

  (死んでからあとを確かに思い知ったことだ

   ただ何も無い、無いというものも無い)

 

五十八、  私の常日頃を問う

   本来の悟りの印あらわれて

   身さえ残らず消え果てにけり

  (本来の悟りの印が表れて

   身さえのこらず消え果てしまった)

 

五十九、  自分こそ慈悲をしていると思っていた人に

   常々に心にかけてする慈悲は

   慈悲の報いを受けて苦しむ

  (つねづねそう意識しながらする慈悲は

   慈悲の報いを受けて苦しむのである)

 

六十、   道理を問う人に

   みちのくの浜名の橋の音羽山

   雁の鳴く音(ね)に駒祝うなり**

  (東北の浜名の橋の音羽山

   雁の鳴く声に馬のお祝いをするのである)

*「みちのく」は東北、「浜名の橋」は静岡の浜名湖の浜名川にかかっていた橋、「音羽山」は京都と滋賀の境の山で、理屈では空間的につじつまが合わない。

**「雁の鳴く音」は雁がねぐらに帰ってゆくときの鳴き声で夕方、「駒祝う」は江戸時代の馬の旅の安全を祈る旅立ちの儀式で早朝、理屈では時間的につじつまが合わない。

 

六十一、  ある僧が人に仏法を説いていたので詠んだ

   悟りても身より心をしばり縄

   解けざるうちは凡夫なりけり

  (悟りを開いても自分の身で心を縛っているのであれば

   その縄が解けないうちは凡夫と同じである)

 

六十二、  仏法の敵を問う人に

   世の中の人のかたきは他になし

   思うわが身は我がかたきなり

  (世の中の人の敵は他にはない

   わが身のことを思うその身が自分の敵なのである)