至道無難禅師「相川氏所蔵法語及書簡等」(3=終わり)

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一、仏の道は、まちがって修行なさると、きちがいになるものでございます。

一、▢▢*あらゆる事柄にかかわらないのがいいといって、身の上が崩れるのも知らない。

*▢▢には文字が入るが、判別不能のため、底本では欠字になっている箇所。以下、推測可能な箇所は、推測して解釈する。推測した字は( )内に示す。

一、▢(身)ぎれいだと人に褒められて、何に付けてもきざを気どり、自分の身の上に過ぎたふるまいをして、身の上が崩れるのを知らない。

一、あるいは自分の仕事を忘れて、自分の役割でもない仏法のこと*を言って飛び歩き、あるいは人の評判ばかりを言って、朝夕人に交わって馬鹿話をし、自分の悪を少しも知らない者である。

*原文「仏法▢て」となっているが、「仏法だて」と読む。

 右(以上)は、いずれも仏法を聞きそこなった人のする行いである。

 

一、正法(しょうほう、ただしい教え)という事は、つねづねいかにも、第一に慈悲心をもち、自分の胸のうちの悪を消し去って、人のためを自分の身のように思って、悪くならないようにする、第二に親方や、自分より目上の人を敬って、ただただ寝ても覚めても、我が身の悪を消し去るだけである。おおむね、悪が退くにしたがって心持ちが安楽になるものである。そうしてつねに清浄心(しょうじょうしん)といって、いかにもいかにも清らかな心が、つねに我が身の主(ぬし)になって、いろいろな事に迷いがなくなるのである。その証拠には、たとえばどんな財宝を見ても、財宝と見るだけで、欲しいと思う心はない。万事このような次第である。これを達磨大師より六代目の祖師である六祖大師*が、お勧めになって、悟道超凡(ごどうちょうぼん)といい、つまりめでたい仏なのである。悟道というのは、悟ることである。超凡というのは、凡夫を超えることである。この道を悟って、いままでの凡夫である自分を超える事である。これがつまり、自分が救われること疑いない事である。念仏を一生のうちに一度も唱えなくても、問題はない。また唱えるのであれば百万回でも唱えるがよい。それはそれでいいのである。仏ということは、その自分の胸のうちの清浄心である。その清浄心は、そのまま死もなく生もなく、自分も他人も、地獄も極楽も、何もかもなくて、しかもまたないと思う心もないものである。

*六祖大師:中国へ達磨大師が仏法を伝えてから六番目の祖師、慧能大艦禅師(638年~713年)。

 

一、普通の人は、天道の罰(ばち)ということを知らずに、常に悪事をする時、自分の心にも確かに悪いと思うけれども、当座には都合が良いと思う欲の心に引かれてするのである。

 

一、たとえば、このたび、尾州(びしゅう)*の法華宗の僧が、主人の女房を犯して磔(はりつけ)にかけられる事、他のことではない。彼もずいぶんと人には隠したのだろうが、自分の胸のうちの清浄心がこれをよく知っていて、お当てになった罰なのである。この清浄心を仏とも、天道とも、神とも言うのである。

 *尾州尾張の国、今の愛知県西部。

 

一、凡夫には、色身(しきしん)*の念、法身(ほっしん)の念といって二つある。色身の念は、この身の念である。たとえば物に対面して、よい財宝をよいとみるのは、いかにも法身の念であって、つまり仏である。あの清浄心の事である。それを欲しいと思ってつくづく**欲しがるのは、色身の念であって、木火土金水***のかたまりである。

*色身:肉体の身。法身は仏の本体。

**底本では字が消えているが、「つくづく」を補って解釈する。

***木火土金水:中国由来の五行説。自然界は、この五つの要素からなるとする。

 

一、この色身の念は、過去に善い事をすれば、今の世でよい。悪い事をすれば、今の世で悪い。これは確かな証拠である。そうであるから、慈悲の行いをもして、人に悪いことがないようにするのが、仏ともいうことである。そのようなことで、報いをよく知る事なのである。おろそかに思ってはいけない事である。

 

一、今どきの未熟な出家者、あるいは仏法のことをいかにも心得たように語る人は、自分の悪を消し去るすべを知らずにそのまま悟れといって、息巻くのである。不届きなことである。自分の悪を消し去らずに悟りたがるのは、たとえば生まれたばかりの子供に馬に乗れと言うようなものである。どうしてできようか。第一に、自分の悪を消し去って、清浄心が現れたとき、それがすなわち仏である。有り難い事と思って、これを強く守って、つねづね我が身の主(ぬし)にしておくようにする事である。

 

一、身の上の事は、良いときは良いように、悪いときは悪いように、その折々の都合で、人に何とか借金をしないようにするだけのことである。

 

一、この道を悟った人のもつ宝こそ、真の宝なのでございます。悟らない人は、物をもてば無間地獄へ落ち、貧乏であれば貧地獄へ落ちているのでございます。その証拠には、つねづね寝ても覚めても苦しむばかりでございます。これは、今の世だけのことであるので、まだせめてもの事です。または、生まれ変わり生まれ変わりして幾世と限りなく変ってゆくものであるので、おそろしい事なのでございます。あまりにもむさぼる念があれば、ハエに生まれ変わるものでございます。必ず必ずおそれつつしみ、はっと気づいて、つねづね悪念を消し去るようになさってください。

 

一、大いなる悟りということがある。それは人の宝となって、仰がれ敬われるものでございます。それになったからといって別に仏の光も出るわけではないのでございます。それでも、このようなことも申し上げないと理解していただけないので、申し上げるのでございます。

 

一、じかにこの身がありながら有るのを知らず、ものを言えどもものを言う主(ぬし)を知らず、ものを聞けども聞く主がない。このように言うと、たいていの修行者は自分もその通りだと思うものである。そこに大いなる違いがある。

 

一、大道を大いに悟ったとき、自分を知らない証拠には、たとえば女に交わっても、宝に交わっても、何の心もなくなる事である。これがたいていの修行者のできない事なのでございます。そのようになった者が、人の師になってもよいのでございます。たとえば、お釈迦様が三十歳のとき、女に仏法をお説きになった。これで理解しなければなりません。

 

一、おおよそ聞いてご理解なさっていただきたい。

   もの聞くももの言う主も知らぬなり

   この身をつねに離れたるには

  (ものを聞く主も、言う主も知らないのである

   この身をつねに離れている者には)

   仏とはただ名ばかりにしでの山

   三途の川はいづくなるらん

  (仏とはただ名前だけであって、死後に超える山や  

   三途の川はどこにあるというのだろうか)

   ▢▢▢▢(うまれき)て有りがたしとは今ぞ知る

   生きてあるとも知らぬ身なれば

  (生まれてきて有難いとは今こそ知るのである

   生きているとも知らない身であるから)

 

一、何事も、虚空の響きと同じことで、しかも虚空だという理解もなくなる事でございます。

                          無難

[宛名があり、次に本文数行があるが、摩滅して読めない。]

 

     〇

仏法、人の心を言う。人に備わって知ることは確かである。慈悲の心であり素直な心である。他と和合してものの悲しみを知り、生き死にやあらゆる事柄を離れて常に安楽であるから、極楽と言う。少しも願い求めることがないので、仏と言う。悪念をもってけがしてはならない。

                             至道庵主

 

     〇

主君と臣下、親子、夫婦、友人の交わりにおいて、仏心が現れなければ、たちまち誤った悪意が起こるので、あるいは殺しあるいは恨みを含み、常に地獄・餓鬼・畜生・修羅に落ちて苦しみが多い。このような恐ろしい罪でも、仏道を修行する人は、たちまちに変じて大安楽を得ること疑いがない。  

                             至道庵主

[この法語は、妙心寺春光院川上孤山氏所蔵のものでは、「主君と臣下、親子、夫婦、友人の交わりにおいて、常に交わりが悪ければ、あるいは殺しあるいは恨みを含み、常に地獄・餓鬼・畜生・修羅に落ちて苦しむこと甚だしい。このような恐ろしくこわい罪業であるけれども、仏道を修行する人は、たちまちに大安楽を得ること疑いがない。至道庵主」となっている。]

 

〔以下、書簡四点は、法語というより私信の性格が強いと思われるので省略〕

                              

                                   終わり