至道無難禅師「相川氏所蔵法語及書簡等」(2)

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一、大悟(たいご、深く悟ること)すれば、大悟はない。祈って祈るものなく、喜んで喜んでいるものがない。生きて、生きているものがなく、死んで、死ぬものがない。あるものもなく、無いものもない。姿はありながら、姿もなく、有無を越えて有無にまかせ、良し悪しを越えて善し悪しにまかせる。和歌に

   迷いてはものこそ物となりにけれ

   悟れば物のものにまかする

  (迷っているうちは物が物となっている

   悟れば物のそのものにまかせるだけである)

 

一、インドで仏と言う。中国で天道と言う。日本で神と言う。天照大神(あまてらすおおみかみ)のことである。これはすなわち人の身にあるのだが、それを知らないで、ねたみそねみ、人の財産をのぞみ、人を苦しめ、自分をよくしようと思うので、さまざまな悪念によって畜生(動物)となるのである。

 

一、仏や神にお参りするときは、まず心を清らかにしなさい。汚い念があれば、天照大神をけがすのである。心が明らかであれば、目上の者を敬い、目下の者を憐れみ、主君を尊び、親には孝行をし、兄弟仲良く、他人に偽りをすることなく、何事も正しく、自分の世渡りに精を出し、常に慈悲の行いをするのである。心が明らかであれば、神の恵みを受けること疑いない。心を自分のものと思い、悪念でけがすので、罰(ばち)を受けるのだという事、確かである。

 延宝二甲寅(1674年)仲夏(陰暦5月)吉日 濃州不破郡関ケ原村*の後世までの大切な宝である

                             至道庵主

*濃州不破郡関ケ原村:現在の岐阜県不破郡関ケ原町。禅師の出身地。

 

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仏法は、天地のうちの大いなる善事である。人は、天地がその実質であるから、修行をするのである。

     心

仏、神、天道と言い、如来と言い、菩薩と言い、天照大神と言う。

いろいろ有り難い名前は、人の心をいろいろと言い換えて言うのである。

心は本来無一物である。

心が動くのは、第一に慈悲である。素直であり、和やかである。ものの悲しみを知り、主人には忠誠をつくし、親には孝行をし、夫婦兄弟友人の交わりに

道を正しくしようと思う、これが心の本来の在り方である。

身に八万四千の悪がある。人は身を思うのである。

心の思い立つ善い事を、身の念が出て一つも行わない。

お釈迦様が世に出られて、身の悪を消し去れ、悪が無ければ身はない、身が無いのが仏だとお示しになったこと、ありがたい。修行というのは、身の悪を取り去るだけのことである。悪を去り尽くすとき、見たり聞いたり気づいたりすることに主(ぬし)が無い。

   善悪をあらためぬれどよしあしを

   あらたむるものさらに無きなり

  (善し悪しを確認はするけれども、善し悪しを

   確認する者はまったく無いのである)

これは、自分の仏の印である。

   何も無き心に渡る世の中は

   剣(つるぎ)の上もさわらざりけり

  (何も無い心で渡る世の中は

   たとえ剣の上でも何でもないのである)

これは確かなことである。

     人がつねに間違うこと

人に騙されることを嫌い、自分に騙されて喜ぶ事。

人の死を知って、自分の死を知らない。

人の良し悪しを詮索して、自分は不作法である事。

貧乏であることを苦しんで、逃れる事を知らない。

本来無だと言えば、無と知る事。

仏道に法(理論)を立てる事。

仏法に入らなければ、身を守ることはできない。

神仏に祈る人はいるが、身の仏を敬わない。

悟りをもって仏法とするが、悟る人はまれである。

ほっと出た一念の悪意をひるがえすことを知らない。

 右(以上)の法語、必ず読んで自分の心に尋ね、自分の姿をかえりみて、何するにつけても、怠らないようにせよ。ついには仏道に至ること、疑いない。

    仏というのは

見ないもので物を見、聞かないもので聞き、言わないもので言うのである。それゆえに滞ることがない。

    凡夫は

見たり聞いたり気づいたりに主(ぬし)があるので、色事に迷い、財産に迷うのである。常に自分に苦しみがあって、生きながら畜生(動物)である。死んで後は必ず畜生の姿を得ること疑いがない。

けっきょく、心は虚空のようなものである。それゆえに有難く、恐れ多く、怖いものである。罰を受けること、疑いがない。

身から出る念、いやはや嘆き悲しみはとても言い尽くせない。凡夫はつねに自分に騙されて喜ぶので、地獄・餓鬼・畜生・修羅道に落ちて、逃れる者はない。

仏や神のいるお堂に、誰かけがらわしい物をたむける人がいるだろうか。

自分の素直な心を悪念をもってけがして、どうして罰を逃れることができようか。

  延宝三乙卯(1675年)初冬(陰暦10月)の日

       右(以上)を濃州関ケ原へ書いて送るものである

       生まれてより七十三歳、自ら筆をとる

                      武州*江戸東北寺

                         至道庵主  印

武州:武蔵の国。

 

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悪く汚いものへと生を変え変えて汚いので、畜生などになれば、浮かぶことはない。それゆえ、たまたま人の姿を得ることができたときに仏になれという事である。

一、我が身の仏が出てきてあらゆる事をする時、何事も思うようになる事、疑いはない。

一、我が身の仏を身の念が何度も何度もけがせば、必ず罰(ばち)を受ける事、疑いはない。

身の仏は神と言い、天道と言うのである。世界の有難いこと、恐れ多い事、自分の一つに留まるのである。

自分の心は、天から与えて、仏である、神である、けっして疑ってはならない。

その仏を現すために身の悪を消し去るのを修行というのである。

一、坐禅して如来に力をつくし、陀羅尼(呪文)を繰り返し唱えて、身の悪を消し去りなさい。身の罪がない時、心が現れるのである。疑いはない。

一、身の念に引かれては、畜生になるのである。

一、身の仏を見つけ、敬い尊んでいる時、身の罪はすっとない。外から有難く思いがけない善い事があるのである。

    九月六日

                           無難   花押