盤珪禅師「盤珪仏智弘済禅師御示聞書 上」(7)

二十 禅師が仰った。ある和尚が私に言われたのだが、あなたも毎日毎日また同じ事ばかりを話さなくとも、合間には少しまた因縁話や故事物語などをもして、人の心がさわやかに入れ替わるように、説法を行われるのがよろしいと言われました。私はこのように愚鈍ですけれども、人のためになることならば、愚鈍であるといっても故事の一つや二つは覚えようと思えば覚えられないこともありますまいが、そのような事を話すのは皆に毒を食わせるようなものでございますわな。毒を食わすようなことは、まずすることはできません。

  総じて私は、お釈迦さまの言葉や祖師の言葉を引いて人に示すこともしません。ただ人々の身の上のことを吟味すればすむ事でございますから、それで済むのに、またお釈迦さまの言葉を引きようもありません。私は仏法も語らず、また禅法も語らず、説きようもありませんわな。みな人々の今日の身の上の吟味であい済んで、らちが明くことなのですから、仏法も禅法も説きようもありませんわの。

 皆誰でも親の産み付けてくださったのは、不生の仏心一つばかりですのに、我が身のひいきが原因で、みな自分の思わくを立てたがって、顔に血を上げて争って腹を立てなくても、あいつの言い分が訳が分からないので、自分に腹を立てさせたといって、向こうの者の言い分にこだわって、大切な一仏心をつい修羅に変えてしまい、仕方のないことをくよくよと思って、繰り返し繰り返し念に念を重ねて引きずって止まず、たとえ思いを遂げて済ませてからでも、けっきょく役にも立たないことを、愚痴の心で思いを晴らすこともなく、愚痴は畜生の原因ですから、大切な一仏心をそのままついこっそりと、上等な畜生に変えてしまうのです。みな賢い人でいながら、理解していないので仏心を餓鬼に変え、修羅に変え、畜生に変え、いろいろとあれこれ様々なものに変え、餓鬼になり、修羅になり、畜生になるのです。畜生になってしまえば、もはや道理を聞いても耳にも入らず、たとえ耳に入ったとしても、人でいた時でさえしっかり保ち続けることができなかったのですから、畜生になってしまえば道理を聞いてもやはり耳に保ち続ける知恵がないので、地獄から地獄へと移り行き、畜生から畜生へとなり代わって、餓鬼から餓鬼になって何代も生まれ変わり、暗い所から暗い所へ入って輪廻すること極まりなく、計り知れない苦しみを受けて永劫に渡る千もの世代のあいだに、自分の作った罪業を自分でまた打ち壊すひまがない。人間の身をひょっと一度はずしたならば、誰でもこのような次第で、おおごとなのです。ただ仏心を他のものに変えてしまわないということをよくよく心得るのがよいのでございますぞ。

 玄旨軒眼目[総じて一切の迷いというのは、人々がみな身をひいきするので、迷いを生じることでございますな。身のひいきをしなければ、迷いは出てはきませんわい。けれども皆身のひいきをいたしますから、仏心のままでいることができません。迷いを生じまして、結局凡夫になりますわの。初めから凡夫の種といってありはしませんわな。ただ今、皆ここに大勢いらっしゃるが、この場には凡夫は一人もおられません。皆仏どうしの集まりでありますけれども、みな六根〔眼耳鼻舌身意〕の縁に対して、自分の欲のゆえに、きたない欲で、堪えることができず、その時々に迷ってしまって凡夫になりますわい。ふだん仏心のままでいまして、迷うことがなければ、、活きた仏でございまして、もはや悟ることはいりませんわい。みな仏心の尊いことを知らないので、軽々しく思って、仏心をあれに変え、これに変えて、様々に流転し、迷うのでございますわの。

 みな仏心でいることができませんで、自分の欲を出します。欲は餓鬼になる原因でございますから、人の心をついに餓鬼に変えてしまいますわな。欲は正しいものではないので、物をとり、人のすきを見て奪い、不正の富をつくり、あるいは辻斬りや強盗をし、追いはぎをするなど、みなこれ欲より生じたのです。誰でも自分がしっかりしていないことは言わないで、かえって欲が深いのは生まれつきで治りませんと言いますが、浅ましいことでございますな。出すことがなければ治すべき欲はありはしませんわの。それなのに皆さんが時々、六根の縁に対して自分の欲から汚いのに耐えられず、自分で出しておいて、それをしまいには利口そうに、自分が好むことには、欲に限らず生まれつきと言って、生まれつきもしない難題を親に言いかけますが、大きな不幸というものでございますわの。

 親は子に不生の仏心一つを産み付けたということは確かなことでございますから、子どもはその仏心のままで、迷わずにすませば、親は死んだ先でも喜びまして、親子ともに助かりますが、ひたすら迷いに迷いますれば、親は血の涙を流して、それを見て嘆き悲しみましょう。子となって親にそれほど嘆き悲しませるようにするのが子の孝行というものでしょうか。大きな不幸な子というものでございますわな。親もまた子のゆえに迷い、ひたすら嘆き悲しみまして、自分でもまた親の産み付けてくださった仏心を愚痴の畜生に変えますから、親子が互いに攻め合って、かたきどうしとなって、畜生道で取っ組み合っているよりほかのことはありませんが、それぞれがした事だとはいいましても、可哀そうなことでございますわの。みなそうではございませんか。地獄の苦しみを受けて、逃れる時は知れないのでございますわの。]

 今ここにいる人は、一人でも凡夫はおられません。みな人々不生の仏心ばかりでござる。凡夫であると思われる方があれば、ここへお出になられよ。凡夫はどのようなのが凡夫であると言ってごらんなさい。この場にも一人も凡夫はおられない。もしこの場を立って、敷居を一つまたいで出るか、また人前に出て人がふと行き当たるか、また後ろから突き倒すか、また宿屋へ帰って男でも女でも子供でも下男下女でも、自分の気に入らない事をしているのを見るか聞くかすれば、早くもそれに執着して、顔へ血を上げて我が身のひいきのゆえに迷って、つい仏心を修羅に変えるのです。そうして変えるまでは、不生の仏心でいるので、凡夫ではありません。その時生じて、ついちょろりと凡夫になります。一切の迷いはこのように、立ち向かうものに執着して我が身をひいきすることから、仏心を修羅に変え、自分から出してみな迷います。立ち向かうものはどのようにあってもよろしい、立ち向かって執着せず、我が身のひいきをしないで、ただ仏心のままでいて、他のものに変えさえしなければ、迷いはいつでも出てはきません。常に不生の仏心で日を送るというものでございます。そうすれば今日の活き仏ではございませんか。徹底して今日の活き仏で尊いことでございます。