盤珪禅師「盤珪仏智弘済禅師御示聞書 下」(4)

 ですから今日から、男は男の仏、女は女の仏でございます。この女の仏ということについて、女は仏にはならないものだというので、ご婦人方は切なく思われるというが、さてさてそのような事ではございません。男女にどのような違いがありましょうか。男も仏体、女も仏体、けっしてけっしてそのような疑いを持たれないのがよいのでございます。この不生の道理をとっくりと納得されれば、男も女も、不生に違いはございません。みな仏体でございます。もしも女は仏にならないと言って分け隔てをするなら、私が皆さんを偽って、女は成仏しないと嘘をつき、この大勢の方々を迷わせ、私に何の徳になりましょうか。女は仏にならないという事実があるのに、私が確かに成仏すると偽り、各々へ申し聞かせ、どなたよりも先に地獄に落ちまする。私は仏になりたいと思ったからこそ、若い時から修行をしたので、今皆さんを偽ってその罪により地獄へ落ちたいものでございましょうか。ご婦人方はここをよく聞き分けられて、今日からたのもしくお思いなされ。このことにつけ、私が去年備前の国(今の岡山県南東部)へ参り、説法をしたとき、備中の国(今の岡山県西部)の丹羽瀬(にわせ)という所の町人が四五人連れ立って備前に説法を聞きにまいりられました。そのうち二人はご婦人でありました。そのご婦人のうちの一人が私に知らせを寄こして言うには、少し尋ねたい事がございますが、説法をなさっている時では女が差し出がましく思います。内緒で申し上げたいのですと申し込まれましたので、何でもない事と申してやりましたら、ある時、四五人づれでまいって知人となり、そのうちご婦人一人がお尋ねになられたのは、私は丹羽瀬という所の者でございます。世渡りも人並みにしております。男に添いましたが子どもはありませんで、しかし先妻に男の子が一人ございます。これの世話を致しますが、成人しまして、この子が実の子のように孝行者でございまして、実の子がないこともつらくはございませんが、ここに一つの嘆きがございます。子供のない女は後の世(死んだあとの世)のことを願いましても、仏にならないと申しますので、御出家の方々にお尋ねいたしますと、女は男と違って成仏はし難いと仰せられます。そうすればこの人間界に生をうけ、仏にならない女に生まれる事は、さてさて人の世に生まれたかいもない事だと、朝夕嘆かわしく思うのでございます。このことが思い煩いとなって、最近はこのようにやせ衰えてしまいました。さては尊い御出家にお会いし、確かに女は仏にならないのかという事をお尋ね申したく思いました。そんな折にこのたび和尚様がここへお出でになり、ご説法があるということを承り、幸いと有難く思い、いよいよ子供のいない女は成仏できないかということをお尋ねしました。また連れの者が言うには、この人の言う通りで、子どものいない女は成仏できないとお聞きになってから、朝夕このことが気がかりになり、最近はぶらぶらと煩い、このように見る影もない姿になられました。それで世間には子供のない女は大勢いますけれども、これほど後の世をお嘆きになる人はおりません。この方は仏になれないことを、ひたすらお嘆きになられ、御覧のようにこんな浅ましい姿になられました、と語りました。今日はよい機会ですので、このことを申し上げます。

 このご婦人に私が申し上げたのは、子どもがいない者は仏にならないという事は聞きません。子どもがいない者が仏になる証拠には、私などの祖師たちは達磨大師からあと、代々仏法を伝えて私に至るまで、子どもを持った者は一人もおりません。それだから禅の祖師たちや達磨大師が地獄に落ちられたということを聞かれたことがございますか。このご婦人が答えて、それはたとえ子どもがないとしても、祖師様であり、和尚様でいらっしゃるので、どうして地獄へ落ちられることがございましょう。どなたもが仏様でございます、と。それであれば、子どものいない女でも、男女ともに仏心が備わっている身の上で、後の世を願っても仏にならないということがありましょうか、と申しますと、このご婦人は、それは有り難いことでございますが、女の成仏は難しいと承って、これが胸につかえているのでございます、と申されました。それならば、女の成仏が多いことを申しましょう。釈迦の時代には、八歳の龍女、唐(中国)では霊照女、日本では当麻の中将姫、みなこれらの人たちは女の身でありながら、仏になりましたと申し上げると、そのご婦人はとくと納得され、さてもさても有難いこと、日ごろの嘆きはただいま晴れましたと申されました。その後、備前にしばらく逗留なされ、たびたび説法をお聴きになり、逗留している間、はやくも食が進むようになり、顔色もよくなられたのでございます。お連れのみなさんも、この方のご快復の様子を見て大変驚き、なんと嬉しい、有難いことかとことのほかお喜びになられました。女の方でもこのような志を起こし、この世の煩いとなさるのは珍しいことではございませんか。

 そしてまた、悪人と言えども、不生の心をなくすわけでもありません。悪人であることをひるがえせば、そのまま仏心でございます。悪人といっても不生の心のあることを申しましょう。たとえばここから高松へ二人が道連れで参るときに、一人は善人、一人は悪人で、この二人は善いとも悪いとも思わず、道すがら様々な話をして行き、その道中に何かあれば見ようとも思わず、道の左右にある物が、善人の目にも悪人の目にも同じように見え、あるいは向こうから牛や馬が来れば、善人も悪人もよけて通る。前々からそのような心づもりはしていないけれども、やってくれば、話をしながら両人ともよけて通ります。とぶ所があれば、両人とも飛び越えるし、川があれば渡るし、このようなことは前々から心づもりがあるわけでなく、善人はよけて通りもしましょうが、悪人はかえって心づもりがなくては善人と同じようにはなるはずがないのだけれども、善人悪人ともに少しも変わりません。これはつまり悪人でも不生の仏心が備わっている印でございます。皆さんも今まで、惜しい、欲しいといった様々な念、怒りや腹立ちを本心となされた悪人であることで、仏心を修羅餓鬼道に変えてしまい、流転なさいましたけれども、今日私のこの道理をお聞きになって、これをじっくりと納得されれば、惜しい、欲しいの心がたちまちに不生の仏心になります。永劫の未来までも、もはや、この仏心を失わないというものでございます。けっしてけっして、このたびこの仏心を失ってしまうと、万劫億劫という長いあいだ仏にはなられませんから、よくよく納得されるのがよろしいのです。私は奥へ入ります。皆さんもそろそろお戻りなされよ。