盤珪禅師「盤珪仏智弘済禅師御示聞書 下」(6)

 男とは違って、ご婦人方は正直でございます。心も男より優れない所もございますが、悪をなせば地獄へ落ちると申し聞かせますと少しも疑う心がなく、地獄に落ちることを知り、善を行なえば仏になると教えますとそのまま仏になるぞと一筋に思われますので、いっそう信心深いのでございます。私がお示しする不生のところをお聴きになって、しんじんをお起こしになれば、知恵の優れた男子よりも正直なご婦人方が仏になりますぞよ。今回になんとか仏になろうと願われるのがよいのでございます。

 どなたもお思いになることは、腹も立てるな、喜ぶこともするな、何もかも、慎め慎めとばかり言う。そのように振る舞っているとき、お前は大変な阿呆だと言いかけられたら、私らでも、そうです阿呆ですとも言っておられないだろうとお思いになるかもしれませんが、確かにそういうこともありますけれど、阿呆でもない人に阿呆だと言いかける者が阿呆なのですから、そのような者には、やはり哀れに思って気にかけないのが良いのです。

 そうは言っても、侍は、そのように人が言えば我慢ができないものでございますが、それについて譬えを使って申しましょう。世間には高麗茶碗だの花生(はない)けだのといって高価なものを持っている方々が多くおられる。この焼き物を、なるほど、柔らかな綿や袱紗(ふくさ)に包まれるが、それはたいへんよいやり方でございます。侍の心持ちがまずそのようなものでございます。まず侍は常に義理を第一とし、一言でも間違いがあればそれをとがめ、油断のない所が侍の道でございます。お互いに一言をとがめあっている以上、我慢ができないので、常に固くなっている心を綿や袱紗に包んで、とがった所に、人にぶつからないように、前もって用心して言葉をとがめてから、相手を打ち果たさねばなりません。ここを十分納得なさるのがよろしい。主君の先駆けをして敵を討ち取るといった殺生もありますが、これは侍の仕事なので、侍の身の上としては殺生とは申されません。ただ、自分でたくらみをして、相手を打ち果たすとすれば、それが殺生でございます。仏心を修羅道に変えるのです。

 私には江戸にも庵がございます。麻布と申す所で、江戸のそばでございます。ある時、私が長らく使っておりました者が、少し仏法への志もあり、僧侶のしぐさなども常に見ておりますので、自然と仏法への志も起こっていたのですが、この者を共に住んでおります者たちが、或る晩、使いに出したのでございますが、その道中は江戸外れの家の無い所で、しばしば辻斬りがあり、日暮れに一人で行くのは心配だと申しますと、いえすぐ帰りますからと申しますので、その通りにしたところ、結局使いに行って帰り道に日が暮れ、いつもの所で辻斬りと出会い、その使者とすれ違って、お前の袖が私に当たったと言って刀を抜きましたところ、使者が申すには、私の袖は当たっておりませんと申して何とはなしにその辻斬りを三拝したところ、お前は不思議なやつだ、許すから行けと言って、その難を逃れました。ある商人がこの様子を見ておりまして、傍の茶屋に逃げ込み、様子をそっと覗いて今切るか、もう切るかと思っていたところ、使者はその商人の前に来ました。やれやれあなたは危ない所を逃れましたね、それで今の礼拝はどう思われてなさったのかと申しますので、私らの所にいる者はいつも三拝をしております。今も何という心もなしに切れば切るまでよと思って三拝を思わず知らずしたところ、お前は不思議なやつだと言って、許す行けと言って通しましたと申しまして、難を逃れて戻ったのですが、こうしたことは逃れ難い所を逃れたのでございました。早くも信心の志があったゆえのことであろうと申したことでございます。そういうわけで、非道な辻斬りさえ心が和らぎましたように、仏法ほど疑いのないものはございません。

 このように方々で活動しますと様々な事がございます。私は伊予(今の愛媛県)の大州(おおず、今の大州市)にも庵がございます。だいたい毎年行って、しばらく滞在いたします。大州の庵はここのような感じではなく、大きなお堂でございます。私が参りましても、なかなか大勢のお参りがございますが、女中がいるお堂がございます。坐奉行*が四人いて、そのうち二人が来て、押し合いしないように、この四人が指図をして行儀正しく聴聞をいたすのでございます。大洲近辺の二三里*の郷(さと)からみなさんお出でになります。あるとき、大洲からニ里ほどある郷の人で、大洲のある人の娘とご縁があって置かれておりました姑がおられ、一人の子もできました。この夫婦は常に仲が悪く喧嘩が絶えませんでしたが、のちに大喧嘩をし、一人の子も夫に渡して、この女房が家出し、親元へ帰ろうとしたところ、夫は幼少の子どもを抱えて女に申しますには、お前が親元へ帰るならばこの子を川へ流すと申しかけました。女が申しますには、そちらへ渡した以上はどのようになさっても構いませんと申しました。また夫が申しますには、たとえお前が親元へ帰ろうとも、着物や道具は一つもやらないと申しますと、この家を出るからには、着物や道具など惜しくないと申し捨てて、大洲へ参りました。

*坐奉行:座席の手配をする人のことであろう。

*里:むかしの距離の単位。約4キロ。

                                 (つづく)