盤珪禅師「盤珪仏智弘済禅師御示聞書 下」(5)

 同二十六日朝説法

二十六 どなたも仏に成りたいとお思いになって、このように早くからこの集まりへおいでになるのは、もっともな心掛けでございます。このたび仏に成らなければ、万劫のあいだ仏に成ることができません。人間界に生まれましたのは仏になるためでございます。このたび誤って地獄に落ちますれば、苦しみよりもさらに苦しみの罪を受けて、流転する事でございます。よく納得なされませ。世間の悪賢い者が申すことでございますが、この身が終わってのち地獄があるの、極楽があるのと言うがそれは今の人をおどすためじゃなどと、何の考えもなく、まことの仏道の話であるとは微塵も知ることのない者が申すことでございます。もし釈迦の説法でさえ欺くような人があって、この人が地獄も極楽もないと申すならば、もしそれはそうでもございましょうと申されましょうが、賢い口をきくばかりのことで、そのような事を申すのは、大きな間違いでございます。

 まず釈迦は六根(眼、耳、鼻、舌、身、意の六つの感覚)に六神通*を獲得なされ、その場に居ながら地獄や極楽を見分けられ、この仏法を広くお説きになり、今に伝えてさまざまな経典があるのでございます。何の学問をすることもなく、仏も仏法もわきまえずに、仏法を無いものにする事は、譬えて申しますならば、夏に生まれて夏に死ぬ虫が、世間は常に暑いものだとばかりに理解しているようなもので、仏道を心がけ、学問をもし、仏法をわきまえるということもないのであれば、夏の虫が多くを知らないようなものでございます。お釈迦さまは、未来まで申し伝えるような、本当はない地獄や極楽のことを、本当にあるものだと説法なさるはずがあるでしょうか。仏ご自身に何の得るところがございましょう。せめて悪賢い人が、その人だけ、地獄は無いものだ、極楽もないものだと思っていればよいことでございましょう。確証もない事を説いて人に語り聞かせ申す事は、第一に我慢偏執(がまんへんしゅう:驕り高ぶり自分の考えにこだわること)と申すものでございます。これはどうもこうも言えません。悪人の凝り固まりというものでございます。

*仏や菩薩が持つ六種類の神通力。

 このような者に限って、自分をひいきするものが少しの芸をもっていたりするのは、たまたまその事が得意で上手であるというもので、世間にはこうした者が多くおります。これは大きな間違いでございます。人をほめるのに、人が喜ぶようにほめ、人の喜ばしいことを聞きましては、自分の嬉しいことの降りかかったように喜ぶのこそ、世間の道であるべきでしょうし、不生の心持とも言えましょう。見ること聞くことに我慢偏執があっては、備わっている仏心を地獄としてしまいます。まして仏道にけっして疑いをお起こしなさいますな。その疑いから後世(死んで次の世)を無いものとみなして、仏心を失ってしまい、悪人となって、身をひいきし、ついにそれが表れ、縛られ、くくられて、磔や獄門にかかります。これは親への不孝というものでございます。

 親は仏心を産み付けましたのに、その仏心をついは修羅道に変えてしまうのは、さてさてながかわしい事でがざいます。親は子が成人して悪人になれと思う親はございません。しっかりと我が身を正しくしなければ、孝行とは申されません。どなたも今日から覚悟なさって、さてさて親の恩ほど有難い事はない、西東をも知らないこの身を知恵のつくまで養い育て、仏とも仏法とも知らない身に、このような有難い事を聴聞させ、この不生の仏心であることを納得するのは、ひとえに親のおおいなるご慈悲であると尊敬なされませ。これがすなわち孝行というものでございます。孝の道にかなえば、そのまま仏心でございます。これは孝行の心、これは仏心だと、二つ三つの心があるのではないのです。ただ、すべてよく一心でございます。腹を立てる事、惜しい、欲しいといった我が身のひいきを離れ、召し使う者であってもつらくあたらず、憐れみを加え、たとえ給料や報酬をやる立場でも、打ち叩いたり、道に適わないことを行うのは間違いでございます。身分の低い下人だといっても特別に違う他人だとは思わないのがよいのでございます。まったく目の前の我が子が自分の気持ちに従わず、もしその従わない子が他人ならば、どれほど腹が立つでしょうか。我が子と思えば我慢するのは、我が子にはどれほど悪いことを申しつけても、もともと親子ですから、深い恨みにもなりませんが、召使の者は他人ですから、我が子の恨みとは違いがあろうというものでございます。今まではこのような道理をお知りにならなかったので、怒って人を叱り、胸の内を騒がせるのは大きな誤りでございます。この仏心である道理をお聞きになった上は、これ以後は損なわないのがよいのです。このように申すからといって、下々の者に頼まれたわけではありません。一般に世間には何でも物を投げるような人がいるものでございます。