盤珪禅師「盤珪仏智弘済禅師御示聞書 下」(1)

 

*底本:鈴木大拙(編校)『盤珪禅師語録 附 行業記」岩波書店、1941年〕

*〔 〕底本編者による補足、( )は底本編者の挿入、[ ]はブログ主による補足を表す。

*はブログ主による注釈。

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盤珪仏智弘済禅師御示聞書 下

 

   元禄三年八月二十三日昼 讃州(讃岐の国、現在の香川県)丸亀でのご説法

  (龍本では、元禄元年八月二十三日讃州丸亀宝津寺ご説法とあるが三年が正しい)

 

二十四 私が皆さんに申し聞かせます説法は、他の事でもございません、不生のことわりでございます。人々には仏心が備わってございますが、それをご存知ないので、私が申し聞かせるのでございます。それで、仏心があるとはどのような事かと申しますと、このお屋敷の面々は、私が申す事をお聞きになろうとお思いになって、どなたもお宿から覚悟してお越しになって、説法を聴聞されるうちに、この寺の外で犬が鳴きますれば犬の声と聞き知り、カラスが鳴けばカラスの声とお知りになる。これは皆さんどの方もお宿からこの寺へ参詣しようとお思いになるときに私が仏法の話をするあいだに、余所で鳴く犬の声、カラスの声、大小の人のもの言う事を、耳に聞き、目には赤白の色を見分けて、鼻にはよしあしの香りをかがれる。以前からそう覚悟しているのでなければ、どうして物の声も色香をも、この会合でお知りになれるはずはないのだけれども、その覚悟のない事を、見知り、聞き知りいたすところが各々に備わっている不生の気(機、はたらき)と申すものでございます。例えば誰でもがお聞きになる犬の声を、千万人が今のはカラスの声であったと申したとしても、納得されましょうか。どうして人には騙されないでしょう。これが霊明なる不生の仏心でございます。見ようとか、聞こうとかと、以前から覚悟していることなく、見たり聞いたりいたしますのが、不生でございます。見よう聞こうと考える気の生じないのが、これ不生でございます。不生であれば、不滅でございます。不滅とは滅しないのでございますが、生じない物が滅しようはございません。ここが各々の仏心が備わっているところでございます。ですから、仏菩薩の世から今の人間界に至るまで、仏心と申すものは不生不滅でございまして、各々の名に、この仏心がそなわってあるではございませんか。その仏心があることをご存じないので、どなたも迷われるのでございますぞ。

 迷うというのは、どのような事であるかといえば、我が身にひいきがあることによって、迷うのです。我が身にひいきがあるというのは、どのような事であるかといえば、まず皆さんの隣の人が、自分の事を悪く言っているという事を聞くと、その事を怒り、その人を見ると憎み、理解できないと思い、その人がいろいろ言うことなども悪く解釈したりする事は、これ我が身にひいきがあるからでございます。このように怒り、腹を立てますれば、自分に備わっている仏心を、修羅道の罪に変えてしまうのではありませんか。また、隣の人が自分をほめるか、喜ばしい事を自分に言って聞かせますときには、いまだ褒められる事があるわけでもなく、喜ばしい事が起こっているわけでもない先に、はや喜ぶのではございませんか。この喜びは何事かと言えば、我が身にひいきがあるからでございます。

 この身のもとを顧みてみますと、出生した時に、嬉しい、憎い、つらい、と思う念を、親が産み付けて与えたのではまったくございません。これは出生ののち、知恵が生じましたものでございます。このように、憎いと思うなら修羅道へ、この仏心が変わり、人の物が欲しいと思うなら、自分に備わっている仏心は餓鬼道へと変わります。これを流転と申します。このことを皆さんじっくりと納得していただいて、怒りや腹立ちもなく、欲しいや憎いやといった念も起こさず、つらいかわいいの心もなければ、これがすなわち不生の仏心でございます。

 このように仏心のある事をどなたへも申し聞かせるのでございますが、私は幼少の時から仏心ということを心にかけ、方々で修行し、善き師僧を尋ね求めて対面し、いろいろと疑問を尋ねましたけれども、とくと納得はできませんでした。あるいは座禅をし、あるいは山にも住み、身を凝らして考えましたけれども仏心ということは納得できません。しかしようやく近頃になって見いだしまして、納得しましたので、この不生のことわりを申し聞かせるのでございます。このように申し聞かせます者は、あまりいないだろうと思います。先に申した通り、私は長年修行をし、この仏心をようやく納得しましたが、皆さんは修行する時間もなく、身をも凝らさず、この集まりにおいて容易く仏心をお知りになる事は、私どもより仏縁が深く、皆さまの幸せと申すものでございます。この不生のことわりを見いだしまして、方々でこのことわりを説き聞かせます。納得された方も多くおられます。もっともこの不生のことわりを私は習って知ったというものではございません。自分で見いだした不生でございますから、私が理解しました通りに毎回集まりで申し聞かせますので、これを一度や二度お聞きになっただけでは、納得がいかないでしょうから、幾度もお聞きになって、疑問の事があればお尋ねなされ。その上で申し聞かせましょう。                   (つづく)