盤珪禅師「盤珪仏智弘済禅師御示聞書 上」(12=終わり)

二十三 しまいには、願いが成就して、母にもよくわきまえさせ、死なせましたわの。それからというもの、天下に私の舌先三寸にかかって説法をした者はおりませんでしたわな。それ以前に私があがき回った時分に知った人がいて、言って聞かせたらば、無駄骨をおらないのでしょうが、知った人が無かったので、言って聞かせてくれる人がなくて、長い間骨を折って、身命を業火に砕きましたので、今に至るまで病気がちであって、思うように皆さんの前に十分に出てお会いできませんわな。

  さて、不生で一切の事が整うという事を理解しましたので、それを人に話してみたくなって、誰に会ってこれを話そうと思っておりましたところ、師匠が仰るには、美濃の国(今の岐阜県)に愚堂和尚という人があるが、よい人じゃ、という。お前さんの悟りの証明もしてくれるだろうから、愚堂和尚の所へ行って話してみたらばよかろうと言われました。それから愚堂和尚にお目にかかって話そうと思って尋ねて行ってみますと、ちょうどその時、江戸に行かれてお留守であったのでお話しを申し上げることもできません。せっかくここまで来て、どなたにも話さずにただすたすた帰るよりは、と思って、その辺りの和尚たちを訪ねてお目にかかって申し上げたのですが、私は播州(播磨の国、今の兵庫県の一部)の禅宗の者ですが、和尚のお示しを拝聴したくてここまで参ったのでございますと言いますと、すぐに和尚がお話しくださったので、私もまた参上した身ではありますがお話しを申し上げました。はなはだ不躾ではございますが、お許しくだされ。皆様のお示しを受けてかたじけなく思いまして、受け取らせていただかないわけではないのですが、何か靴の上からかゆい所を掻くように思われまて、じかにそこに触って掻くような感じではありませんで、私の骨身に沁みるということがありません、と申し上げると、さすが和尚ほどのことはあって、仰るには、たしかにそうなるはずでしょう。私らが人に教えるといっても、お経や語録の言葉を覚えていて、昔の徳のある人の教えに従って、その教えの通りにまた人に教えるだけで、恥ずかしいけれども実際に悟って人に示すのでない。実際に悟らないので私どもが教えるのは、靴の上からかゆい所を掻くようなもので、浸透しないと言われるのはもっともじゃ。あなたは私をよく見分けられて、ただのお人ではあるまい、と仰っただけで、悟りの証明をしてもらうまでの事にはなりませんでした。

 それから故郷へ帰って、家に籠って人と会わず、今の時代の人の気性を観察して、教え導く手立てを考えておりますうちに、中国から道者(どうしゃ:仏道を修めた人)が日本に来て長崎におられるという事をお聞きして、師匠が仰るので、この道者のところへ参上してやっと、生死を超えたということだけは証明してもらったようなことで、その頃は確かに、証明をしてくれる人が稀であって、苦労をいたしましたわの。

 そういうわけで、毎日出て来まして皆さんにお会いするのは、他の事ではございません。今どなたでも、悟りを開かれた方がおられれば証人に立ってあげたいというためだけに、こうして出てまいります。これにつけましても、皆さんは幸せでございます。悟った人がいれば、決着してもらう証人に事欠きませんから、この事を納得したと思う人がいたら、出ておいでなさい。またまだ納得したという皆さんがおられないのであれば、私の言う事をよく聞いて、決着を付けてくだされ。

 人々みな、親が産み付けてくださったのは、仏心一つでございます。その仏心は不生で霊明なものと極まりました。不生なものですから、不滅なものとは言うには及びませんので、私は不滅とも言いません。仏心は不生なのが仏心で、一切の事は不生の仏心で調いますわの。三世(過去・現在・未来)の諸仏、歴代の祖師というのもみな生じた後の名ですから、不生の場からは第二第三のずっと離れた事ですわな。不生で居れば、仏や祖師方の根本で居るというものじゃわいの。人々仏心は不生なものと、よく決着をつけさえすれば、畳の上で骨をも折らず、心安く活き如来でおられるというものじゃわいの。

 決着がつきますれば、決着がついたその場から、人を見る眼(まなこ)が開けて見えるようになりますわの。私はけっして人を見損ないはいたしません。不生な眼は誰でも同じことでございます。それで我が禅宗を明眼宗(みょうげんしゅう)と申しますわな。また決着がつきますれば、親が産み付けてくださった不生の仏心で居りますから、我が宗をまた仏心宗と言いますわな。人を見る眼が開けて、人の心肝が見えるならば、仏法が成就したと思いなされ。その時が、仏法が成就した場でありますから、私がただいま言うことを決着しない人は、私が皆を言いくらますように、当分は思われて、頷かない人もおられるでしょうが、ここを去って以後、私が言ったことを誰であっても決着させる日がありましたなら、その日、その時、その場を立つことなく、その場から人の心肝が見えるでしょうから、その時私が皆さんを騙していなかったことを初めてお知りになるでしょうの。それからのために、ただいま精を出しておくことにしますわの。

 私が嘘をついて皆さんを騙しますなら、妄語の罪によって、死んで後に私は舌を抜かれますわの。私が舌を抜かれることに引き替えて皆さんを騙しますでしょうかな。この不生の正法が日本でも中国でも、年久しい間、世に絶え、廃れておりましたが、今日また再びこのように世に興ったのでございますわな。不生にして霊明なものが仏心に極まったという事を決着させれば、千万人のひと、あるいは天下の人が寄り集まって口を揃えてカラスをサギと言いくらましても、カラスは染めることなくして黒く、サギは染めることなくして白いものだということは、普段から眼にしていてよく知っているので、どれほど人が騙そうとしても騙されないように、確かになりますわの。まずそのように不生にして霊明なものが仏心、仏心は不生にして一切の事が調うということさえ人々が確かに納得して知っておれば、もやは人に教えを受けて間違うということはなく、だまされず、人の惑いを受けないようになれますわの。そのようになった人を、決定(けつじょう)した人(決着のついた人)と言って、つまり今日不生の人で、みらい永劫の活き如来でございますわの。

 私が若い時分、はじめてこの不生の正法を説き始めた頃は、人がみな知ることでできずに、私を外道(げどう、仏教以外の教えを説く人)か、キリシタンキリスト教徒)のように思いまして、人が恐ろしがって、一人も寄り付きませんでした。次第にみな人々の態度が間違っているのが分かりまして、正法だということがよくよく分かりまして、ただいまは、かつて一人も寄り付かなかったことから変わって、あまりに多くの人が尋ねてき過ぎて、私を催促して、せがんで会いたがって、一日も安らかに私を置かないようになりましたわの。物には時節があるものでございますわの。私がここに住むようになってから、四十年来から人に教えを示しましたので、このあたりには僧侶まさりな者が多くできましたわの。

                         (上巻 終わり)