盤珪禅師「盤珪仏智弘済禅師御示聞書 上」(11)

(二十二つづき)禅師がご在世のとき、ある日仰るには、「もし大梁が世にあれば、わしが様々な事に気を回すこともないのだが、早く死んでしまって、わしが世話を焼くことになるのじゃ」と言う。また、「わしの弟子の中に祖圓という者があって、人を見る眼が開けて、人のためにもなる者であったけれども、最近になって死にました。たいへん残念なことをしました」と。

 師は日頃、輿(こし)に乗るときも、輿の中で蹲踞(そんきょ)*をしている。力士が重労働をしているのを思いやってのことである。朝昼二回の食事の他には、一つのお菓子、一つのおかずでも、皆に与えずに自分だけで食べるということはなかった。二回の食事の時も、必ず自分でまず嘗めて確認してから皆に出した。大結制の時も、このように加減を見てから皆にふるまい、「皆さん、これはきれいですよ。大勢の皆さんは、わたし一人を目にかけているのですから、それを粗末にしようはないことじゃ」と言って、皆を思いやるのは常の事であった。一言二言のお示しでも、このように老婆がご飯を噛み潰して赤子に与えて養うようで、その丁寧で礼儀正しいことは言葉では言い表せないほどであった。

*蹲踞(そんきょ):両ひざをつき、頭を地面につけて敬意を示す姿勢。

 ある日、大梁座元がまだ世にあった頃、味噌が悪くなってしまったが、捨てようもない。皆はだれもそれを食べていた。大梁が言うには「皆も私も、悪くなった味噌を食べることは全く何でもないが、禅師は集団の主であり、とくに普段ご病気がちなので、もし悪い味噌があたりでもすれば、大変なことになる」と言って、典座(てんぞ)*に言いつけて新しい味噌をつかせておいて**、禅師一人にだけ差し上げた。ある日、禅師が仰るには、「昨日までの味噌と、今日の味噌は違って良いが、今までの悪い味噌が皆無くなったので今日から良い味噌を食べ始めたのか」と、給仕の僧に尋ねる。僧が答えて「いやそうではございません。皆は今までの悪くなった味噌を食べていますが、禅師は御病気がちなので、もしあたりでもすれば大変だと言って、大梁の指図によって別の味噌をつき、師ひとりに差し上げているのです」と言う。

 そこで禅師はすぐに大梁を呼ばせた。大梁和尚が参上する。師が仰るには「大梁、そなたの才覚で別に味噌をつき、わしに良い味噌を食べさせたというが本当か」。大梁が答えて「なるほどその通りです」と言う。師が仰るには「それなら、そなたは、今日からわしに物を食うなということのようだから、分かった、なるほど食べまい」と言って、そのまま起きて居間に入り、中から掛け金をかけて開かない。かすりとも音がしない。大梁は、衣に取りすがってお詫びを申し上げたが、そのように部屋にお入りになってしまった。

*典座(てんぞ):禅寺で料理役をする僧のこと。

**味噌をつく:作りたての味噌にある大豆の粒をついて細かくする。

 それで大梁は困ってしまい、戸の外にいて、いろいろと過ちを悔いたけれども、お許しはなく、また師は言葉を発しない。そのようにして七日が過ぎた。大梁もまた同じように戸の外にあって七日間食べていない。粘り強く悔い謝って、退くことがなかった。それでも師はまだ許さなかった。集まっていた大衆はみな驚き動揺した。

 それで一同は、なんとかお詫びをしなければと灘屋信士(しんじ)*に告げた。信士は驚いてやって来て、皆と同じようにお詫びを申し上げて言うには「禅師はこのようになさって七日間ものをお食べになりません。部屋に入って出ておいでになりません。それで大梁もどうしてよいか分からず、同じように七日間食べていません。そろそろ命も危うくなってきて、心配でございます。禅師はどのようでございましょうか、まず大梁が気の毒でありまして、僧も信徒もともに心が落ち着きませんので、是非とも、お許しいただきたく思います」と言う。

*信士(しんじ):仏教の称号の一つ。禅寺で下級武士などに付けたもの。

 こういうことになって師は、大梁が食べていないことを聞いて、そのまま戸を開けて出て仰るには「わしはこの通りだが、大梁は物を食べないわけにはいかないだろう」と言って、いろいろ仰られ、みなそろって大喜びをして、お詫びを申し上げた。師が仰るには「大梁、よくお聞きなさい。人の手本となる師家が少しでも自分を優先する心を抱いてはいけませんわいの。お前さんは私をかばって、私を大切に思うのだろうが、お前さんが私を大切と思ってした事が、私の仇(あだ)となるのじゃぞ。どうだ、今分かりましたかの」。大梁は答えて「大変間違っておりました」と言う。師が仰るには「これまでの間違いをさとったなら、また再びするようなことはないから、非を知ったらまた同じ事を押し通しませぬ」と言い、常日頃の師の手段はおおむねこのようなものであった。

 師は日頃、昼夜となく、半畳四方ほどの籠に紙をはり、大半はその中に坐っていた。暑くても寒くてもそのようであった。牛行虎視(ぎゅうこうこし:牛のようにゆったり歩き、虎のように鋭く見る)で、眼光が人を射通すような様子であった。

 師は天性から怜悧であり、まったく他と異なる様子であった。一度会った人は、その人が二十年後でも、再びお目にかかると、一人もお忘れではなかったという。]