盤珪禅師「盤珪仏智弘済禅師御示聞書 下」(12=終わり)

三十五 龍門寺の本尊は観音菩薩である。禅師の作である。それを知りながら、ご説法のときに奥州(東北地方)の僧が寄せ柱(よせばしら:馬などをつなぐ柱)のところに立って尋ねて言うには、あの本尊は新仏でございますか古仏でございますか、と。

 師がおっしゃるには、あなたはどのように見ましたか。

 僧が言う、新仏と見ました。

 師がおっしゃる。新仏と見たらば新仏ということで、それで済んだ話だ。何で尋ねる事があるか。あなたは不生が仏心だということをまだ知らないので、そのような何の役にも立たない事を禅と思って尋ねるのか。そのように役にも立たない事を尋ねて皆を妨げるより、黙って私が言うことを座ってじっくりとお聞きなされ。

 

三十六 出雲の国(今の島根県東部)の人が禅師に尋ねて言った。禅師のように悟りますと、三世(過去・現在・未来)が手の中を見るように見えるのですか、と。

 師がおっしゃる。それは前から聞こうと思っていて問うことか、それとも今急に言って問うことか。

 その俗人が言う。けっして今急にお尋ねするのではございません。考えていましたので申し上げるのです。

 師が言う。それならば三世を見たがるのは、あとでも大丈夫であるから、先に、今まさにそうなっているあなた自身のことを、ただ今よく御覧なされ。自分のことを極めないうちは、私がどれほど、どのように見えると言っても、あなたが見ないので受け取りはしませんよ。ご自分のことを極めれば、見える事も、見えない事も、ひとりで知られる事じゃな。だから私が言うには及ばず、私に問うには及びはしませんわな。まず今日の事柄を、御自分の身の上で極めることもせずでは、後でも構いませぬ。遠い三世が見えるか見えないかと尋ねるのは、脇道の詮索、脇道に逸れるというもので、皆よそ事で、人の宝を人に数えてやるようなもので、半銭*にも自分のものになりはしませんわな。ですから、先に私が言ったことをよくお聞きなされ。今日そのようにあるあなた自身の身の上を極める事なので、私が示すのに従って、私の示すことをとっくりとお聞きなさい。とっくりと聞いて決着させれば、そのまま今日の活き仏ですから、三世が見えるか見えないかの事は、担いでまわって、はるばる人に尋ねてまわるには及ばないと、これまでの間違いを知ることになり、脇道へ逸れるのが止みますわな。ですから私が言うことを、お聞きなされ、とお示しがありました。

*銭(せん):一文銭。

 

三十七 また師がおっしゃるには、我が宗(禅宗)は、自力というのでもないし、他力というのでもなく、自力他力を超えているのが我が宗でございます。その証拠に、私がこう言うのを皆さんこちらを向いて聞いておられる時に、後ろで鳴く雀の声、烏の声、男の声、女の声、風の吹く音がすれば、それぞれの声か、聞こうと思う念を起こさないでいても、こちらへそれぞれの声が分かれ通じて聞こえるのは、自分が聞くのでないのですから自力ではありません。またこれを人に聞いてもらって役に立つわけでもありませんから他力ではありません。そうすれば自力でもなく、自力他力を超えているのが我が宗でございますわの。そうではありませんか。このようにその不生で聞くなら、一切の事を超えておりますわな。その他の一切の事も、すべてまずそのように不生で調いますわの。不生で働く人はどなたでも、皆一切の事が不生で調いますので、不生な人はどなたでも、自力他力によらず、他力を超えておりますわな。

 

盤珪仏智弘済禅師御示聞書終

 

この法語は、仏智禅師の仏法を伝える庵に秘め置かれていたのを、私が雨で所在ないところをその庵に行って、仏法の話をした折にこれを拝見し、印刷して公にすれば、老若も女子供も仏法の縁に導き、不生の仏心とする重要な手がかりともなるだろうかと、一向庵主にお願いしてこれを求め、禅師の遺命(いめい:残した教え、戒め)を世間と共に写そうと考えた次第である。

 宝暦丁丑(宝暦七年=一七五七年)冬の日

                    浪華(大阪) 玉端 誌(しるす)