盤珪禅師「盤珪仏智弘済禅師御示聞書 下」(11)

二十九 ある僧が尋ねた。不生でいなさいというお示しでございますが、私が思いますには、それでは無記*でございますが、さしつかえありませんか。

 師が答えて言う。あなたが何とはなしにこちらを向いて私の言う事を聞いているときに、後ろからふいに人が背中へ火をくっつけたら、熱くは感じませんか。

 僧が言う、熱く感じるでしょう。

 師が言う、それならば無記ではございませんな。熱いと感じるものが無記なものですか。無記ではないから、熱いと感じますわな。無記でないから、熱い事も寒い事も、知ろうと思う念を起こさずにいながら、よく知り分け、見分けますな。あなたが、無記だがさしつかえないか、と言うものが、無記なものですか。無記でないから、自分からよく無記を知りますわいの。また無記でないから、無記だがさしつかえないかと言うのですから、無記ならどうして無記とも言いましょうか。そのように仏心は霊明にして賢いものでございまして、無記ではございませんな。それを無記と思うのはあなたの間違い、思うものが無記であるものですか。無記なものなら思いもしないはずです。それならどこに無記というものがございましょうか。さてあなたはいつ無記でいることがありますか、いつも無記ではございませんわな。

*無記:釈尊がある種の問いに対して回答を避け、語らなかったことを言う。

 

三十 師が言う、ただこうして毎日ここへ出まして皆さんにお会いしますが、別にこちらから皆さんへ何を言って聞かせようとも、思ってあてにしていることはございませんので、何でも尋ねたい事がありましたら、誰でもここへ出てきて尋ねなされ。お尋ねになれば、それについて何なりとも言って聞かせましょう。これを皆さんに言って聞かせようと思うあてはございません。

 

三十一 師がある日言うには、近頃、中国から来ました語録などを見ますと、長い間、世間からすっかりとなくなって、最近は中国にも、不生の人は見当たりません。

 

三十二 またある日言う、私も若い時には、随分と問答商量*をしてもみましたが、しかしながら、日本人に似合うように、日常の言葉で仏道を問うのがよいのでございます。日本人は漢語は苦手であって、漢語の問答では思うように仏道について問い尽くされぬものでございます。日常の言葉で問えば、どのようにでも問われないことはありません。だとすれば問いにくい漢語で気を張って問い回るより、問いやすい言葉で気を張らず、自由に問うのがよいのでございます。それもまた、漢語で問わなければ仏道が成就しないというのであれば、漢語で問うのがよいでしょうが、日本の日常の言葉でむしろよく自由に問うことができて済みますから、問いにくい言葉で問うのは下手なことでございます。したがって、皆さんそう心得て、どのようなことでございましょうとも、遠慮せず、自由な日常の言葉でお尋ねになり、決着をつけなされ。決着さえつくのであれば、気安い日常の言葉ほど重宝なことではありませんか。

*禅問答をして力量を測ること。

 

三十三 師が仰るには、仏心は不生で霊明なものだと皆さんお思いなさい。一回行ったところは、何年経っても、覚えていようといつも思っていなくても、よく覚えていて、忘れません。自分が行った所へまた他の人が行きましたなら、百里*離れた所で話しても行った者どうしは、どこで話しても拍子が合います。また道を行く時に向こうから大勢の人が来ますと、脇によけようと思う念を人々は起こしませんが、向こうから来る人に自然とぶつかることもなく、人に突き倒されもせず、踏まれもせず、大勢の人の中を通っても、あちらへくぐり、こちらへ避けて、抜けたりくぐったりして、そうしようと思う分別の念を起こさなくても自由に道を歩きますわな。仏心はこのように不生にして霊明なものでございまして、一切の事が調いますわの。もし万一、自然に脇によけようと思う念を起こして避けるとしても、霊明な功徳でございますわの。とはいえ、避ける方へは念を生じて寄って行きますけれども、足元は、一足一足に分別の念を生じて歩きはしませんわな。それでも自然に歩くのは、不生で歩くというものでございますわの。

*里:昔の距離の単位。1里は約4キロ。

 

三十四 師が十二月一日*に皆に告げて言うには、私の所では、常日頃が座禅の場所でございますので、よその様に、今日から座禅会だといって格別にあがき務める事はございません。眠る僧がありまして、それをある僧がいてひたひたと叩きましたのを、私が叱った事がございました。気持ちよく寝ている者をなぜ叩くのか。眠ればあの僧が〔不生の仏心とは〕他のものになりますかと言った事でございましたが、眠れと言って勧めはしませんが、眠っているときに叩くおは、いかにも間違いでございますわな。今、私の所では、そのようなことはさせません。眠れと言って勧めはしませんけれども、眠っても叩きも叱りもしません。眠るのを叱りも褒めもしませんし、眠らないのを褒めも叱りもしません。起きれば起きたまま、寝れば寝たまま、眠れば醒めた時の仏心で眠り、醒めれば眠っていた時の仏心で起きている。眠れば仏心で眠り、醒めれば仏心で醒めていれば、他のものになるように思うのが間違いです。起きている時ばかり仏心で、寝た時に他のものになるのなら、仏法の究極ではなくて、つねに流転しているというものでございますわの。皆が仏になろうと思って精を出す。それだから眠れば叱ったり、叩いたりするが、それは間違い。仏になろうとするより、皆人々の親が産み付けてくださったのは、他のものは産み付けはいたしません、ただ不生の仏心一つだけ産み付けたので、常にその不生の仏心でいれば、寝れば仏心で寝、起きれば仏心で起きて、日ごろ活き仏でございまして、いつか仏でないということはない。常日頃が仏なので、この他にまた別に仏になるということもありません。仏になろうとするより、仏でいることが面倒がなく近道でございますわの。

*十二月:禅寺では、釈尊が悟りを開いた十二月八日に倣って十二月一日から八日まで厳しい座禅修行が行われ、臘八接心(ろうはちせっしん)と呼ばれる。