盤珪禅師「盤珪仏智弘済禅師御示聞書 下」(10)

 同二日説法

 

二十八 これまで皆さんお聞きの通り、各々生まれついた仏心でございますが、世間のならわしで、悪い世渡りを習いましたので、惜しいとか可愛いとかの餓鬼道に仏心を変えてしまったのでございます。ここをじっくりとご理解くだされば不生の気になります。しかし不生になりたいとお思いになって、怒りや腹立ちや惜しいだの欲しいだのという気持ちが起こるのを止めようとお思いになっても、それを止めますと、一心が二つになります。走っている者を追いかけるようなものです。起こる念を止めようとする場合には、絶えず起こってくる念と、止める念とが闘いまして、止まらないものでございます。たとえふっと思わず知らず怒ることがありましても、また惜しいとか欲しいとかの念が出て来ましても、それは出たままにし、その念を重ねて育てず、執着せず、怒る念をやめようとも、やめまいとも、その念に関わらなければ、自然と止まないことはありません。たとえいろいろな念が起こりましても、その起こって出たときだけで、重ねてその念には関わらず、嬉しい事にも長く念をかけず、一心を二心にしないのがよいのです。常に心持ちをこのようにお思いになれば、悪い事をも良い事をも、思わないようにしようとか止めようとか思わなければ、自然と止まないということはないのです。怒りというのも、嬉しいというのも、これは皆、自分というものから生じたのですから、その心が滅しなければどうしようもありません。とにかく常に不生の心を心がけなされよ。それが第一でございます。このことに油断がなければ、善悪に起こる念もございません。念を持っても止めようとは思わず、このようなときは、生ぜず滅せずではございませんか。ここが不生不滅の仏心というものでございます。

 龍門寺本

〔譬えを使って言うのであれば、血でもって血を洗うようなものでございます。そうしても血はおちるでしょうが、また後の血が付きまして、いつまでも赤味はとれません。そのようなものでございまして、前の止まらない怒りの念は止むでしょうが、止めようとした後の念がいつまでも止まらないのでございます。だとすればどのようにして止めるのかとお思いでしょうが、たとえはからずも思わず知らず立腹する事がありましょうとも、あるいはまた惜しいとか欲しいとかの念が出ましょうとも、それは出るままにして、その念を重ねて育てず、執着をせずに、起こる念を止めようとも、やむまいとも取り合わなければ、止むしかないのでございます。垣根を作ったり論争したりするのは、一人では成り立ちません。その相手がいないのであれば、自然と止まないではないのです。たとえまたいろいろの念が起こりましょうとも、その起こってきました念は、ちょうど三つか四つの幼い子供の遊びのように、嬉しいも悲しいも続けてその念にこだわらず、止めようともまむまいとも、思わず知らずにおられることが、とりもなおさず不生の仏心で居るというものでございます。こうした心持ちで常におられるのがよいのでございます。また、悪いことも善いことも思わないようにしようとか止めようとかに成らなくとも、自然と止まないことはないのでございます。怒りだの喜びだのということも、これらは皆自分の欲のために身のひいきが強いことから生じますので、執着する念を一切離れましたならば、またその念が滅しないことはないのです。その滅したところが、そのまま不滅でございます。不滅なものは、不生の仏心で、不生でございますわいの。

 とにかく、常日頃不生の仏心を心がけなさって、不生の上に、あれだのこれだのと念を出してこしらえ、向かうものに執着し、仏心を念に変えてしまわれる事、これが第一のことなのです。ここに油断がなければ、善悪に起こる念も起こさず、しかも止めようと思う事もいりません。このような時は、生ぜず滅せずではございませんか。ここがそのまま不生不滅の仏心というものでございますから、よくご理解なされるのがよいのでございます。

 見回してみますと、いつもながら今朝はとりわけ大勢の参詣でございます。ただいまの説法をお聴きでない皆さんが多そうです。すでにお聞きの皆さんはもう席をお立ちに成って、まだお聞きでない皆さんと入れ替わられるのがよいでしょうと仰って、会場がすでに入れ替わって落ち着いた後で、ある人が尋ねました事を申し上げます。

 近頃、悪い具合に世渡りを習って仏心を悪念に変えてしまうと仰るのをお聴きし、承って悪いことだと思っております。しかし私は町人でございますので、家業として商売をしております。前からの不満によって立腹することもある状況でございます。私には立腹する悪念などは少しも持たないのですが、何としても、妻子や下男下女らが向こうから腹を立てさせるような事をすることが多いのでございます。ご説法をお聴きいたしますと、これは悪いことだと思いまして、止めようと思い、その怒る念を止めますけれども、どんどん生じてきてついに止むことがありません。このような場合は、どのようにして止めればよいのでしょう、と申し上げると、

 禅師のお答えするに、それはあなたが腹を立てたくて立てるのですな。もともと少しも悪念がないのであれば、向こうからどのように仕掛けようとも、腹が立たないはずでありますが、内に腹を立てるものがこしらえてあるので、またあなたに腹を立てさせようと向こうから言うわけではないけれども、あなたの、私は道理にあわない難題は言いませんが、身のひいきが強いので、怒りの腹を立て、三悪道の業をこしらえて、心の思いが身を責め、自分と自分の業で火の車になるのでございますわの。他に地獄も餓鬼も、業も、鬼も、火の車もございませんぞ。またその起こる念を止めようと押さえとどめようとするのは、悪い心得でございます。本来生まれつきの仏心は、ただ一つで、また二つとはございませんのに、その起こる怒りを止めようと思われれば、怒る念と止める念と二つに成りまして、走っているのを後から追いかけるように、走るのも自分、追いかけるのも自分でございます。

 この事を譬えて言うならば、生い茂った木の下を掃除するのに、上から木の葉が散り積もるようなものでございます。払い除いたそのときはさっぱりとしても、また後から葉っぱを散り敷いているのでございます。このようにその怒りの念は止みましても、後からとめにかかった念は、長く止まりません。したがって、止めようと思うのが悪いのです。このようなわけでございますので、その起こる念にこだわらず、止めようとも止めまいとも思わない所が、そのまま不生の仏心だということを先ほど詳しく申しましたが、あなたはお聞きになったか、残念だ、との仰せ〕