永平仮名法語(道元禅師仮名法語)(七)

〇 大用

 

大用(だいゆう)というのは次のようなことである。仏や祖師も伝えない、向上の一路を歩み出て、生き死にの路を断ち切り、自分の風光(周囲に放つ働き)によって無明(むみょう、真理に暗い無知)を打ち破り、太陽が虚空高く昇って真理の世界を照らし、どこにも遮るものがなく光が明朗であるようなものである。自然智(自ずと備わっている智)、無師智(師から教えられない智)、一切智(一切を包含する智)が目の前に現れてあらゆる道理が明らかになり、あらゆる物事が不明ということがなく、身はおさまり心は明るくなり、自分の内も外も滞ることなく、他人を利して人を煩わせないのを大用というのである。喩えるなら、龍が一滴の水ですべてのものに注いで万物の姿を育てるようなものである。円覚経に言うには、一たび本心を見れば永く生死を超え、大いなる知恵の光明が世界をあまねく照らす、と。一たび本心を見つめれば、自分の心がもとより仏であると覚るのである。心で仏を求めず、心で真理を求めず、過去の心とも思わず、現在の心とも思わず、未来の心とも思わず、ただ思考や分別をなさず、善い心を起こさず悪い心を起こさず、腹がすけば飯を食べ、寒さが来れば服を重ね、疲れてくれば眠り、目覚めてくればすぐに起き、この心がまったく自らの本来の仏だと知るなら、永遠に生死を超出するのである。このように本心を見るならば、三世(過去・現在・未来)のさまざまな仏がお説きになった真理が明らかに分かる。その力でさらに衆生を導くのを大智の光明があまねく法界(真理の世界)を照らすというのである。これはまた、心の大用(おおいなる働き)というものである。心は燈火のようなものであり、念は光のようなものである。心というのは本心であり、念というのは妄念である。また心で本心を得たとも思ってはならない、得るとは得るところの無いのを得るというのである。また心で妄念とも思ってはならない。妄念はもとより虚妄である。虚妄には実体はないのである。また妄念はこの心の用(働き)である。心の知恵である。心がなければ知恵はあり得ない。知恵のあるのを報身仏と言うのである。それゆえ六祖が言うには、「ただ空という見解があるだけで知恵や方便のない者は木や石と変わらない。知恵や方便があるのは、まさに法皇の人である」と。心に慈悲があるのを応身の仏というのである。それゆえ経に言うには、仏心というのは大いなる慈悲の心である。心に慈悲のない者を邪見(誤った見解)の人と名付け、心に慈悲のある者を応身の仏と名付けるのである。万法(あらゆる物事)は一つの心である。一つの心の他に真理はなく、悟りの心は姿形に心を止めるということがない。この心はこれ、色や形のある物でなく、有でなく無でなく、有でないのでもなく、空でなく、空でないのでもない。色でないのでもない、と悟り、あらゆる道理において滞らず、あらゆる物事において差しさわりなく、一念も生じない心は、これ法身の仏である。法身報身応身は、三身の仏である。この三身はただ一つの心である。一つの心に迷うものは三身に迷い、自分の一心よりほかに三身の仏を想いうかべ、浄土に生まれようと願うのは、喩えれば東に行った人を西の方へ探しに行くようなものである。尋ねて行くほど遠ざかってしまう。三身の仏は、この一心であると覚ってしまえば、心よりほかに仏として思い浮かべる仏もなく、浄土として生まれるべき浄土もない。ただ一念の生じないところに指し向かって、心にも執着せず、念にも執着せずに無相(姿形を見止めない)であれば、みなこれ自分の一心の大用である。このように説くのをまだ納得できないとなれば、見なさい、虚空に雲がなければ日月の光明ばかりである。