問い 長い間坐禅修行をしている人は、身心が明るく清浄に違いない。初めて修行をする人は、妄想や顛倒(てんどう、さかさまな思い違い)がどうして止むだろうか。
答え 妄想や顛倒を憎んではならない。ただ心の本性を明らかにしなさい。一心が分からず迷っているので、本来清浄なところで、あえて妄想顛倒があるのだと思っているのである。譬えれば(1)眠っているときに様々な事を夢に見ても、夢が覚めてしまえばすべてみな妄想となるように、一心を悟るときは、すべてみな空であって一物(いちもつ)もない。
(1)底本では「讐へば」となっているが、「譬へば」の誤記とみる。
問い 煩悩即菩提、生死即涅槃という意味はどういうことか。
答え 煩悩というのは愚痴(ぐち)と無明(むみょう)(2)である。菩提(悟りの知恵)とは、すべての衆生の仏性(仏の本性ほんしょう)である。衆生は自分の仏性を知らずに、外に仏性を求め、外に善悪を見、あらゆる姿形にとらわれる。これは大いなる愚痴である。また、さまざまな姿形を捨てて自己の仏性を求める人も、ややもすれば自分は明らかに悟ったという見解を起こし、いくらか普通の人と変わるところがあるので慢心を起こして魔道に落ちることが多い。これは無明である。一心がもとより無心であることを知らずに、心を起こし、心を尋ね求め、いつしか何かが来たり去ったりという顛倒(てんどう、さかさまな思い違い)をする。これが生死の種である。一心がもとより不生不滅であるところを悟れば、自他の差別もなく、善悪や憎愛もない。まったく無念であり無心である。これを生死即涅槃という。一心の根源を悟らずにつねにおのれを失い、仏性をくらましてしまう。このような煩悩の源を尋ねてみると夢や幻、水の泡や影のようなものである。一心の、もとより清浄であるところに至ったならば、煩悩即菩提(煩悩はそのまま悟りの知恵)である。また、一心の源に至ることが出来た時、本分の大いなる知恵の光明があらわになる。このとき、あらゆる物事はおさまり、諸仏の畢竟空(ひっきょうくう)(3)の本質を得るのである。喩えるなら、日や月の光が届かない岩窟は暗いけれども、燈火を持って入る時には、長年の闇が自然と明るくなるようなものである。また、闇の夜でも月の光にあう時には、虚空の本体を変えることなく自然と明るくなる。心の真理もこのようなものである。無明や煩悩の闇に迷う衆生も、知恵の光にあう時には、身心が変わることなく、自ずと清浄である。これを煩悩即菩提、生死即涅槃と言うのである。
(2)愚痴と無明:元になるサンスクリット語は異なるが、いずれも真理に暗く無知なことを言う。
(3)畢竟空:究極の空
問い 心の本性は常住不変(常に存在していて変わらない)であり、諸仏も衆生も一味平等(一体で平等)だといっても、まだ真理に到達せず悟っていない衆生は苦しみを免れることはできない。このために修行して道を悟らねばならない。そうであるなら、見性ののちもまだ気を付けなければならないのだろうか。
答え 一味平等というのは知恵の照らし出すところである。修多羅(しゅたら、お経)の教えは、月をさす指のようなものである。まだ月を見たことがなければ指に頼るがよい。月を見たあとは、指も無益である。まだ仏心を悟らない時は、教えに頼るがよい。もし仏心を見届けらなら、八万の法門は、一心においてありありとしている。一心を悟りおわったのちは、一つの教えをも用いず、祖師の言葉は門をたたく瓦のようなものである。まだ門に入らない時は瓦を手に掲げるが、すでに門に入ったならば、瓦を掲げてどうしようというのか。それゆえ仏や祖師の本心を悟らないうちは、見性成仏の言葉を掲げてみるがよい。すでに大いなる解脱の門を開き、仏や祖師の本心を徹底して悟ったならば、見性といっても有難い何もなく、成仏といっても得られるものではない。仏も無く、衆生もなく、本来一物もない。三世(過去、現在、未来)は捉えることができない。