月庵禅師仮名法語(十二)

〇 簡入禅人に示す

 

 四大(1)はもともと、主体がありません。五蘊(ごうん)(2)は本来、空(くう、実体がない)です。たとえ父母の縁を借りていったんこの世に生じたように見えるといっても、実際には生じるものはありません。またこの人間界の縁が尽きて、しばらく滅するように見えても、実際には滅するものはありません。これを水中の月、鏡に映る姿に譬えるのであり、その姿があるように見えたとしても、それはただ光影(見え姿)に過ぎず、本当の主体があるわけではありません。このことを悟る人は、生き死にをも恐れず、涅槃(輪廻を脱した悟りの境地)をも愛さず、煩悩をも断ち切らず、菩提(悟りの知恵)をも求めません。生まれ出ることも死に入ることも、自由自在に遊ぶかのようなもの、順境も逆境も、優れた働きを示して滞ることがなく、千回生まれ変わり一万劫という長い年月を経ても、まったく移り変わるという道理がありません。ただそれぞれの特性にまかせ縁に従っているまでです。さかさまに見ている迷った衆生は、このような道理を知らず、ただ目の前の姿に迷わされて、肉体にふけり声に捉われ、香りを愛し味を好み、さまざまな姿形に執着の心を深くして、即座に離れることができません。これを生死のきずな(生き死にの世界に深くつながれていること)と言うのです。たとえまた、このような世間の姿やさまざまな欲求を恐れる人も、生死がないのに本当に生死があると思い、さまざまな姿形がないのにさまざまな姿形があると思うことによって、いよいよ迷いに迷いを重ねて、即座に想念がやむことがかなわないのです。それゆえ、さまざまな仏や祖師方、善智識(指導する僧)がこの世に出られて、教え導き、直に見て、直に聞き、直に行い、直に悟らせるのです。素質の優れた人は即座に納得して、さらに重ねて生死の念を持ち続けることはなく、一切の疑いの心はその場でたちまち止んでしまう、これをその場で成仏する人と言うのです。素質の中くらいの人や劣った人は、このようになることはできず、ややもすれば道理に執着する心が絶えません。それゆえしばらく想念をおさめ、心をやめて、一切慮ることなく、坐禅して探求せよと教えるのです。この教えに従って、さらに重ねて疑うことなく、さまざまな道理や思慮を絶って、まったく死んだ人のように何の心もなくして直に参究するなら、本来の面目(元来の真実の姿)が脱体現成(だったいげんじょう、物の束縛を脱して仏性が現前する)するでしょう。この一念の信念を堅固にもって、別の念をまじえなければ、それはただ今の人生のみではなく、生まれ変わり死に変わりしても悪道に落ちず、大解脱した大安楽の人となるでしょう。たとえまた命が尽きる時に、どのような病気の苦しみや死の苦しみに強くおかされても、また数知れない善悪の様子が現れたとしても、一念も動ずることなく、さまざまな姿形に目をかけることなく、何とも思わずに命を終えるならば、それがそのまま生死裁断(しょうじさいだん、生き死にを断ち切ること)の時にほかならないのです。疑ってはなりません。

 

(1)四大:物質の世界を構成すると考えられた四元素、地・水・火・風。

(2)五蘊:物質を表す色(しき)、精神の要素を表す受(じゅ、感覚)、想(そう、表象)、行(ぎょう、意志)、識(しき、認識)の五つで物質界精神界の全体を表す語。